旅行の支度

旅行に出かけることが増えて、遠出する時の荷造りがだいぶ簡素に、素早くなった。

ポイントは「カネとパスポートとコンタクトレンズといつものスキンケアがあれば死なない」「最悪、カネで何とかなる」である。同じ下着や服を複数日に亘って身につけていても、高温多湿地域でなければ2日くらいは何とかなる。いやさ、高温多湿地域であっても現地調達してしまえばいいのだ。いざとなれば。

重度の近視に乱視が混ざっているので視力矯正器具は必須だ。メガネあるいはコンタクトレンズなしではどこで車に撥ねられるかわかったものではない。以前はハードコンタクトだったので洗浄液だのなんだのとかさばったが、海外赴任後にうっかりレンズを割って以来、ワンデー使い捨てに切り替えたので大変快適である。

残念ながら皮膚がひよわな方なので、特に顔に使うスキンケア用品はいつものものがあった方がいい。それなりの年齢になったので、1日ぶんのダメージをリカバリするのに1週間は最低でもかかるのである。ただし大仰な荷物にしたくはない(何より、たかが数日の旅行で預け入れ荷物にするのは億劫だ。ロスバゲの危険もあるし)ので、1リットルのビニールバッグに収まるような準備はしておく。この点、もともと外資系のコスメを使っている人はもう少し気楽だろう。いざとなれば免税でトラベルキットを買えばいいのだから。私はコスメデコルテユーザーなので、帰国の度に「今期はミニチュアキットないですかねえ……」とカウンターのBAさんを困らせる。あのお試し用にくれるパウチサンプル、意外と売れるのではないかと思うのだが、カウンターコスメでパウチサンプルセットを売っているのを見かけない。きっとコスト高なのだろう。割高でも喜んでたんまり買うのだが。

メイクアップの方は現地調達もやむなし、という構えでいる。ヨーロッパならたいていセフォラ(セルフ形式の複合ブランドコスメ屋さん)がどの街にもあるので気楽だ。一度、プラハでロスバゲした時は、翌日でないと荷物が届かないという話だったのでセフォラで一式買い揃えた。結局、当日夜に届いたので余計な出費だったが。

 

旅行先ではめったにお洒落はしない。目的地がきな臭い(端的に言えば収容所跡とかホロコースト博物館とか)というのもあるし、基本的には歩き回るし、できるだけ「アジアから来た小金持ちの旅行者=カモ」と見られるリスクを下げたいからだ。

アジア人なのはもうどうしようもないので、テキトーな服装にすることで「アジア人だが、この辺に暮らしている=ジモティー≒カモにしづらい」という印象を与えたいという小細工である。ジーパンにパーカースニーカーとか。

たまにオペラやクラシックのコンサートを観に行くというときは、それなりのワンピースなどを持って行くけれども、そういう格好をしているときはホテルと会場を直行直帰だ。

 

ということで、よほど長期でない限りは旅行や出張の準備自体に迷うことはない。

旅行前に一番時間を使うのは、持って行く本の選定である。

滞在期間中、日中はあちこち出かけるので本はあまり読まないとして、問題は往復の移動時間だ。夜も、日中に歩き回り、あれこれ見て博物館のキャプションをあまり堪能でない英語で読んで、としていると体も頭も疲れて寝つきがいいのでホテルで退屈を持て余すことはあまりないが、移動中、特に飛行機を使う場合はどういう本が手元にあるかが死活問題だ。

飛行機では電波が受信できない。ヨーロッパ圏内を飛ぶ短距離便ではなおさらだ。つまりTwitterで時間を潰すことができない。言い換えれば、Twitterに気を取られなくて済むので、格好の読書時間ということでもある。たまにやってくるCAの投げてよこすサンドイッチと飲み物のタイミングを除けば、席に座った瞬間からボーディングブリッジが接続されるまでは読むしかない。

問題は「どれだけのペースで読み進められるか」という点である。読む本ならば、未読既読問わずいくらでも持っている。とはいえ移動図書館ではあるまいし、5冊も10冊も持って行くだなんて非現実的だ。いや1冊あれば十分じゃねえの、というご意見も拝聴するが、1冊だと往路はともかく復路を乗り切れない可能性がある。当然のことながら内容、扱うテーマや文体によって速度は大きく左右されるのだが、特にフィクションものだとあっさり読み終わってしまって、帰りのフライトでやむを得ず機内誌や機内販売のカタログをくまなく読む(しかもくどいようだが英語でだ)はめになったことが一度ならずある。「バーベキューは、新たなフェイズへ。もう着火で手間取って場を盛り下げる必要はありません。このxxxグリルならば、最新鋭のyyyシステムが酸素を豊富に送り込み、瞬きひとつの間にzzzキロジュールの熱を生み出します。サイドに配置されたコントロールバーで火力の調節も簡単。言うまでもなく、お肉から野菜まで香ばしい焼き上がりをお楽しみいただけます」って、機内販売でバーベキューグリル買う馬鹿がいるのかよ(よく読んだら「後日、配送します」って書いてあった)。

あまり面白すぎる本を持って行くのも困りもので、以前『ペンギンの憂鬱』と『hhHh』の2冊を持って行ったものの、どちらもめちゃくちゃ順調に読み進めてしまった。前者は、鬱病のペンギンと一緒に暮らす売れない小説家が存命人物の追悼記事を書きだめてくれと依頼されるところから始まるウクライナ人の小説、後者は第二次大戦中にチェコで起きたナチ高官・ハイドリヒの暗殺事件を主軸に、「体験し得ない過去の出来事を物語る」ということに対する著者の逡巡を通奏低音とするノンフィクションだ。あまり期待していなかったのだが、特に『ペンギンの憂鬱』の方を存外スピーディーに読み進めてしまったのだ。上述したバーベキューグリルの案内はその帰路、膝の上に『hhHh』を置いたまま読んだ。

面白そうで、すぐに読み終えてしまいそうな本なら複数冊持っていかなくてはならない。が、そうすると荷物は重くかさばる。かといって1冊では不安だ。あるていど重厚なテーマの本を持って行くにしても、万一に備えてもう1冊忍ばせておきたい。もうバーベキューグリルとか、ブランドもののバッグとか、使いもしないスキンケア用品とか、安眠グッズとかの売り口上を英語で読むのはまっぴらだ。ここまで言うと、お前は何か読んでいないと死ぬのかと問いたくなるだろうが、こっちは真剣なのだ。読むものがなければ寝るか死ぬしかないし、寝るということは意識を失うということで、肉体はともかく精神的には死に等しいので、read or dieと言っても過言ではない。いや過言だが、活字中毒の親父に育てられた娘もまた活字中毒なのだ。何かしら読んでいいものがなければ不安なのだ。カップラーメンをすすりながら、蓋の内側に印刷されたキャンペーン案内を読む女なのだ。これは一種の強迫性障害といってもいい。

そんなわけで、旅行の前夜は長いこと本棚の前でああでもないこうでもないと考え込んでいる。積読山の上から順に2冊持っていけばいいという問題でもなく、面倒臭いことに、「フィクションが読みたいぜ」の波と「ノンフィクションで行きたいぜ」の波と「思想書で考え込みたいぜ」の波、大きく分けて三種の波があり、どれがいつくるのかわからないのだ。それぞれの場合に備えて、せめてフィクションとノンフィクションは組み合わせたい。行き先によっては関連する思想書が読みたい場合もある。しかも、私の好むたぐいのフィクションや思想書はたいてい文庫化されていないので必然、サイズも重量も増す。荷物は軽くしたいが読みたいものが読めない苦痛も耐え難い。もう大混乱だ。

 

ということで明日から週末を利用してベルリンに旅行するのだが、持って行く本を選ぶのにさっきまで悩んでいた。

一冊は『ナチの子どもたち』(タニア・クラスニアンスキ)にするか『夜』(エリ・ヴィーゼル)にするか悩んだ挙句、前者に決めた。昨年の12月から年明けにかけて『トレブリンカ叛乱』(サムエル・ヴィレンベルク)『イェルサレムアイヒマン』(ハンナ・アーレント)『アウシュヴィッツ収容所』(ルドルフ・ヘス:所長のほうの)と立て続けに読んで来たのだが、アーレントを除いたふたつは当事者の回顧録だったので、同種に属するエリ・ヴィーゼルの方は後回しにした。

そんでもう一冊が問題である。一冊めの性質と物性(ハードカバーでやや重い)を考慮すると、ここでより重厚な人文思想系をぶつけるのはちょっとしんどそうだ。が、このところ小説に没入できないことが続いており、持って行ったはいいが入り込めない事態は避けたい。さてどうするか、と本棚を漁った挙句、『宮沢賢治詩集』に落ち着いた。

数日前から思い立って文章のリハビリがてら始めたこのブログだが、書けば書くほど自分の中から語彙力が失われていることを痛感している。特に情動方面の語彙がごっそり抜けていて、心理や風景の描写がまるで上手くいかないのだ。こういうときは詩を読むに限る。わたしは宮沢賢治が好きなのだ。今までに何度、「今わたしが目にしているこの光景、宮沢賢治ならさぞ無機質に美しく冷徹に描写しただろうに」と忸怩たる思いを覚えたことだろう。わたし程度の俗物が賢治のまなざしと言葉に憧れるなどおこがましいことこの上ない話だが、賢治の言葉はそう憧憬するに足りる、いやさあまりある。『ナチの子どもたち』の内容も、ベルリンで訪れる予定の場所たちも、決して気楽なものではないはずだ。そこで現実から半音乖離したような賢治の言葉を用意しておこうと思ったのである。

今回はなかなかいいチョイスな気がする、まあ帰ってこないとわからないが。