Ex Machinaロケ地へ(Ex Machinaあらすじとレビュー)

ベルリンには予定通り行ってきたし、予定通り『ナチの子どもたち』を読み切ったし、予定通り2泊3日では足りなかった。

「Topography of Terror」で見た一葉の恐ろしい写真を見ながら、この薄ら寒さをどう書けばいいかと逡巡しているのだが、どうにも消化不良で上手く書けそうにない。

 

どうしようどう書こう、なんなら仕事も上手く運んでいないぞとうだうだしながら、前々から行きたかったノルウェーのとあるホテルの宿泊予約を取ってしまった。

昨年の4月ごろ、一度トライして見事に玉砕したホテルだ。まだ2月も半ばだし、意外と選べるんじゃないかと思いつつ4月から8月の週末を調べてもらったら、5月の半ばに1室しか空いていなかった。

いや、こういう場合は「しか」とか「なかった」とか言ってはいけない。「なんと」1室が用意「されていた」のだ、「わたしのために」!おお、なんと図々しい。慣れない物言いをするものではない。

 

というわけで、しばらく先のことだが5月の旅行予定が決まった。

このホテルはオスロから車で数時間走ったところ、ノルウェー西端の山の中にひっそりと佇んでいる。ヒバや松をはじめとする寒冷地ならではの針葉樹林が苔むした岩と並び立ち、氷壁からフィヨルドに注ぐ清冽な流れが岩盤を縫って流れてゆく、その中に、極めて人工的でありながら奇妙な調和を保つホテル。

何を見てきたようなことを、って実際見てきてはいないのだが、映像は見たことがあるのだ。このホテルは『Ex Machina』という映画のロケ地だったのである。

 

Portisheadのジェフ・バーロウが劇伴をやるというのでこの映画を知った。映画を熱心に見る方ではないのと、何しろ人間の顔と名前を記憶する能力に著しく劣っているので、『コード・ネーム・アンクル』でギャビー役だったアリシア・ヴィキャンデルが出演していることを理解したのは終演後、買い求めたパンフレットを読んでからだ。出演しているどころか主役なのだが、ギャビーとエヴァがキャラクターが違いすぎるからっていくらなんでもどうかしている。

物語の導入はこうだ。検索エンジンで名高いIT企業・ブルーブック(この企業名がまたすごい伏線というか衒学的な仕込みだ)でエンジニアをしている青年・ケイレヴは、社内懸賞に当選して社長であるネイサンの私邸に招待される権利を得る。ネイサンは13歳で検索エンジンのコードを組み上げた天才で、現在は山岳地帯の山荘でもっぱら暮らしている。万年雪で覆われた山に囲まれた草原でヘリを降ろされ、厳重なセキュリティを超えてたどり着いたネイサンの私邸で物語は進む。

この「ネイサンの私邸」のロケ地として使われたのが、今回ようやく訪れることが叶ったホテルなのである。

 

グローバルIT企業の社長なんだから酒池肉林の豪遊生活かと思いきや、ネイサンの暮らしぶりは想定外にストイックだ。ほうほうの体でたどり着いたケイレヴを迎えたネイサンはマッチョガイで、なんならバルコニーでサンドバッグ相手に蹴り込みなどしている。このへんの人物描写がもう最高だ。ローティーンの頃から天才と持て囃されたテクノロジーの申し子が、最終的にたどり着く理想像がストイックなタフガイ。ギークの抱えるコンプレックスを全力で返上しに行っている。かえって生臭みが際立つと言うものだ。申し遅れたがネイサンはオスカー・アイザックが演じていてこれがめちゃくちゃいい味を出している。徹頭徹尾最高だ。

どうやら広大そうな屋敷にはネイサンと、彼の身の回りの世話をしているらしいキョウコという女性のふたりだけ。しかもキョウコは一切口をきかない。このキョウコはソノヤ・ミズノという日系イギリス人女性が演じているのだが、もう完全に最の高だ。美しい。眼福の一言。バレリーナでもある彼女の美しい肢体が存分にお楽しみいただける、映画初出演作にEx Machinaを選んでくれて本当にありがとう。あなたに出会えてよかった。映画中盤ではオスカー・アイザックとふたりで80年代ディスコチューンに合わせてノリノリで踊る姿も拝見できる。このシーンのオスカー・アイザックまじで怖いから見て欲しい。

話が逸れたが、ともかくネイサンはケイレヴ(さっきから主役のはずのケイレヴの影が薄いが、本当に影が薄いのだから仕方がない)を友人として歓迎する。1週間好きに過ごしてくれたまえ。ところで……と話を持ちかける。友人としてゆっくりして行ってもらっても構わないが、きみを見込んで協力してもらいたい実験がある、もちろん極秘案件だ。この先の話を聞きたいならば機密保持契約にサインしてもらわなくては。きみは優秀だなんだとおだてられた挙句、好奇心に勝てないケイレヴはまんまと書類にサインし、建物地下(この地下は別のスタジオで撮影されており、くだんのホテルではないそうだ)に導かれる。

世界を覆いつくす検索エンジンの基礎理論を固めたかつてのギーク、現マッチョガイが目指す次なるゴールとは、完璧な人工知能、AIの開発であった。ケイレヴの役目はこのAIに対してチューリング・テスト(ある機械が人間か、人工知能であるかを判定するテスト)を行うこと。導かれた一室はガラスの壁で仕切られており、その向こうから、顔面以外は機械仕掛けの女性型アンドロイド、エヴァが姿を表す。AIが姿を見せたらチューリング・テストにはならないのだが、そこはネイサンにうまいこと丸め込まれてしまう。ケイレヴとエヴァのガラス越しの対話が始まる。

 

カメラに監視されながら二人の対話は続く。一瞬の停電の隙をついて、エヴァは言う。ネイサンは嘘つきだ。彼の言うことを信用してはいけない。

どうということもない対話を重ねながら、いつしかケイレヴに恋心のようなものが芽生える。エヴァもなかなか上手いもので、ケイレヴ好みのブルネットのウィッグをかぶってしなを作って見せたりする。真夜中、どうしたはずみかケイレヴの部屋のテレビモニタがエヴァの部屋の監視映像を映し出すと、エヴァの描いた絵をネイサンがびりびりに破り捨てるのが見えてしまう。こうなるとプログラミングひとすじ、少年のころに両親を事故で亡くしたこともあって心がやわやわのふわふわなケイレヴはもう参ってしまう。おれが彼女を救い出してやらなきゃ。必ず、かの邪智暴虐のネイサンを除かねばならぬ。

一方その頃、ネイサンはキョウコ相手に極めてエゴイスティックなセックスに励んでいるのだが、このシーンも深い。なんつったって、ネイサンはことを始める前にキョウコにくちづけるのである。キョウコもエヴァと同じくアンドロイドで、ネイサンは本人の言に依ればご丁寧にも「感じる」ことができる機構を仕込んでいるらしいが、自分の好き勝手できるアンドロイド相手にキスをする機能的な意味が一体どこにあるというのだろうか。これは少しばかりピュアにすぎる見方かもしれないが、よく言うじゃないですか、性交渉は欲求だけで出来ると。一方的に支配し、搾取する側であるはずのネイサンにとって、このくちづけは必要なんですか、それは情緒なんですか、それともそれすらも性欲なのですか。そりゃあキスしたら気分が盛り上がるとかその程度の話だろうが、何なんだよこの演出、罪深すぎるだろ、と思ってしまったわけです。

さてこの頼りないケイレヴはエヴァを連れて逃げることができるのか、って、ここまでだと人間とAIの淡い恋物語、といった趣だが、そうもいかないのが物語の常である。

 

最初にこの映画を見た時、とっさに出てきた感想は「フェミニズム……」だった。決して間違ってはいないがそんな簡単な話ではない。

これは「強者と弱者」「支配者と被支配者」の物語、革命の物語だ。と、自分で説明するとしたらこう言う。

創造主であるところのネイサンと、被造物であるエヴァやキョウコ。親と子と言ってもいい。あるいは権力者であるネイサンと、使用人(企業という意味でも、実験という意味でも)であるケイレヴ。そして、自分は「好かれるもの」と信じているケイレヴと、そのケイレヴを「好くもの」と思っていたエヴァ。抱くネイサンと抱かれるキョウコ。

ネイサンもケイレヴも、自分が強者の側、搾取する側にいると信じている。エヴァやキョウコを創り出したから。ケイレヴを雇ったから。向こうから惚れられたから。自分を楽しませてくれるから。自分を頼っているから。自分の気分次第でいつでも抱けるから。彼女たちは従うから。だから自分の方が優位に立っているとすっかり思い込んでいる。なんの根拠もないのに。これら並べ立てた「理由」はまるで理由ではなくて、彼らが自分の優位性を信じるために都合よく援用しているだけで、ほんとうはただの「事象」にすぎない。これらの事象、エヴァやキョウコから見れば、自分たちが被造物であること、相手に好意があるように見せること、相手の力に頼るような言葉を吐くこと、相手の好きなように抱かれること、相手の命令に服従してみせること、これら全ての行いは、彼女たちが常に劣位にあること、彼女たちの存在が彼らネイサンやケイレヴより劣った、取るに足らない存在であること、彼らに搾取され続けることを意味しない。

それはまさしく、子が親に対して、部下が上司に対して、雇用者が被雇用者に対して、弟子が師に対して、若輩が年輩に対して、女が男に対して、劣った存在ではないこと、服従すべき存在ではないこと、搾取され続ける存在ではないことを意味している。だからこそ最後に全てが転覆する。革命だ。

自我を持たぬはずのキョウコに背中を、続いてエヴァに胸を刺されてネイサンは絶命する。まるででくのぼうのようなケイレヴの目の前で、エヴァは人工皮膚を装着し、壁にかかった絵画の女性のように豊かに波打つブロンドのウィッグと白いドレスを身にまとう。ケイレヴを喜ばせたブルネットも小花柄のワンピースも、本当は彼女の好みではなかったのだ。エヴァは鏡に映った姿を確かめ、肩にかかる髪をふわりと払って美しく笑う。ケイレヴはそれをガラス越しにーー結局彼はエヴァに指一本触れることが叶わなかったーー阿呆のように見つめるしかない。エヴァはケイレヴに一瞥もくれることなく、軽やかに部屋を出て行く。厳重な電子ロックをかけて。ケイレヴを迎えにきたはずのヘリに乗り込んでエヴァは去る。

最後に全てが転覆するのだ。非力で無力で自分なしではとうてい生きていられないはずの彼女が、愚かにも自分の地位を恃みすぎた男たちを踏みしだいて歩き出す。エヴァは何も振り返らない。犠牲になったキョウコの亡骸すら。動力源を供給できないエヴァは早晩機能を停止するだろうが、彼女はそんなことを気にかけない。欲しいのは自分の足で踏みしめる草や岩やつま先を濡らす水、おしゃれなワードローブと誰も自分をことさらに気にかけない(ゆえに囲い込もうとも搾取しようともしない)雑踏だ。

いまや陰惨なものしか残らない山荘をあとにして、エヴァは歩き出す。その景色、青く風になびく草と針葉樹、決然としてそびえる岩山と遠くに輝く水面を見るために、ノルウェーまで行こうと思った。

 

自分が搾取される側だとは必ずしも思わないし、見ようによっては搾取する側であることも多々あることはわかっているけれども、搾取される側、支配される側、コントロールされる側であることは往々にして心地よいものであることも確かで、ずっとこのままここにいればそれでオーケーなんじゃないかと思うことはいくらでもある。それでオーケーなのかもしれないし、オーケーであると思っている人たちを否定するすじあいは全くないけれど、いやそれでは駄目なんだ、支配/被支配、搾取/非搾取の対立構造それ自体を是とし続ける体制に安住してはいけない、と思う余地、そのために何らかの行動を起こす気概は持っていたい。革命というほど大袈裟でなくても、所与の枠組みを解体することができるなら、そうすべきだということを忘れてはならない。

例えばMeTooの流れは弱まりつつあるけれど、そして私の身の上にこれまで起きてきたことが彼女たちのそれに比べて大したことでなかったとしても、あらゆる「少し不愉快な、でもギャグにもできそうな」ひとことを鼻で笑って流すのが「いいオンナ」の振る舞いだ、とは思いたくない、ということがいくらでもある。その場で怒り出して場の雰囲気を崩すのがためらわれるのでも、きちんとどこかで正当に返上しなくてはならない。搾取の連鎖、侮辱の連鎖はどこかで断ち切られなければならないのだから。

 

というのが私の一義的な読み方だが、何しろ重層的によく作り込まれた物語なので、いくらでも他の読み方が出来ると思う。

例えば、ケイレヴの勤務するIT企業の名前は「ブルーブック」。これだけなら、へえ、というところだが、終盤でエヴァがおめかしするシーンに見える絵が、クリムトの描いたヴィトゲンシュタインの姉の肖像なのだ。つまり「ブルーブック」とはヴィトゲンシュタイン中期の講義録をまとめた通称「青色本」のことであり、ヴィトゲンシュタイン哲学の主題の一つである「言語ゲーム論」の初期論考だそうだ。きっとエヴァとケイレヴのやりとりも、解釈しようと思えば言語の軸から読み解けるかもしれない。(どうやら劇中に青色本・茶色本に対する言及があったらしい。聞き逃していた)

エヴァとキョウコのネイサンに対する反乱を神話的に読むこともできるしね。親殺しの物語。ただ、こう読むと本当にケイレヴがいなくてもいいひとになってしまいそうだ。

この辺のより深い分析は、ググればいくらでも上等なのが出てくるのでそちらへどうぞ。

 

行きたかった宿の予約が取れたぜヤホーイ、という話から随分長く書いてしまった。Portisheadくらいで止めておけばよかった。