祈りから遠く離れて

年始に一家で初詣をした。我が家は割とそういうところが保守的で、毎年欠かさない。賽銭用の五円玉をかき集めて行く。

二礼二拍手一礼、と作法をなぞりながら、毎年のことながら、この手を合わせている時に何を考えたらいいんだ、ということばかり考えていた。

 

ヨーロッパというのは、どの街を訪れても教会に事欠かない。大小や絢爛度、ビジター向けかジモティー向けかに差こそあれ、教会それ自体を見つけることは容易い。スターバックスを探すより簡単だ。

そしてどの教会も、たいていは誰にでも門戸を開いている。私のような信仰心のかけらもない人間が、博物館を歩き回って疲労困憊だから休憩がてらお邪魔したって誰も気にしない。確かに礼拝用の椅子は堅い木でできている上に前傾していて、お世辞にも座り心地が良いとは言えないが、そんなことはどうでもいいのだ。明るくない。うるさくない。誰も私を気にしない。何十分でも黙って座っていていいのだ。足が少しでも軽くなるまで。鎮痛剤が効いて頭痛が和らぐまで。せめて真摯な誰かの邪魔にならぬように、最後列の一番端で。

視線を伏せてしんねりと座っていれば、ひょっとしたら祈っているように見えるかもしれない。祈りの作法も、祈るべきことも、何もわからなかったとしても。

 

祈るふりができていると思い込んでいる私の横を、人々が通る。あるひとは無遠慮にカメラを掲げながら。あるひとはステンドグラスを物珍しげに見上げながら。

二人の老婦人が入ってきた。互いの右腕と左腕を組み、それぞれのもう片手には杖をついて、支えあうように、凭れ合うように、あるいは崩れ合うように、よろよろと進む。

もとより雑念まみれの私の横で、双子のような二人がゆっくりと膝を折った。組まれていた腕がほどけて十字を切る。彼女らの正面、ずっと先の方には祭壇が、磔のまま祀り上げられた神の子の姿がある。両手を組んだ二人は長いこと動かない。

冷たい石の床に着いたスカートの生地と斜めになった杖の先を眺めながら、祈るのか、と思った。祈るのか。こうして祈るのか。

 

彼女らにとっては挨拶以上のものではないかもしれない。私が田舎の親戚を訪ねた時に、仏壇に線香を上げて手を合わせるのと同じような、ただの慣習にすぎないのかもしれない。十字を切るからといって、その行為に明確な意志があるとは限らない。賽銭箱の前で神妙な顔をして10数えている私と同じくらい、何も考えていないのかもしれない。

でも、そうではなかったとしたら。たっぷり1分は跪いたままだった二人が、意外と危うげなく立ち上がる。この数十秒間に、彼女たちは何を思っていたのか、あるいは思わないのか。

 

それで、祈る人の姿に気がついた。

礼拝席で両手を組んだまま動かない人。嘆きの壁に頭を打ち付けるようにしながら聖書のページをめくる人。地下聖堂で円陣になって一心に歌う人たち。ロザリオを繰る指。祭壇に掲げられる小さなキャンドル。手向けられた花。絨毯の上でひれ伏す腕。

祈りを目にするたびに後ろめたさと一種の羨望が入り混じったものを感じながら、彼らには神がいるのだ、と分かった。

彼らには彼らの神がいる。たとえその神が日常の全てとともにあるわけではないとしても、彼らは彼らの神の名前と、祈るべきことを知っている。

私は知らない。私の神の名前も、祈るべきことも、何も知らない。いや、知らないのではない。私はもとよりそれらを持たないのだ。この感情はそのせいなのか。私は神を持つ彼らが羨ましいのか。

 

一心に祈る人の姿、うつむいた頭や閉じた瞼や組み合わされた指やなにごとかを呟く唇や跪く膝頭、それらの総体が視界に入る時、わたしが覚える後ろめたさは「侵してはならないものを侵してしまう」という畏れに近い。彼らの祈りが彼ら自身のことであれ、近しい他者のことであれ、あるいはこの世界、地球上に住まう全てのことであれ、祈るという行為は極めてプライベートな、他者の介入する余地もなければ許されもしないものなのだ。

誰も彼らの祈りを邪魔することはできない。そこは彼あるいは彼女と、その神にのみ許された絶対不可侵の領域だ。彼らの祈りは破られてはならない。

その祈りに居合わせてしまったこと、祈るべき神を持たずに都合のいい時だけ都合のいい神様を頼る自分のような軽薄なものが、いかに観光地化されていようとも祈りのために成立したその場所に足を踏み入れてしまったこと、それが後ろめたいのかもしれない。

 

「他人の情事の現場を覗き見てしまったような」という比喩を思いついたが、あまりに下世話であるとはいえあながち遠くもないのかもしれない。いやしかしやはり下品だ。祈りとは観念的な性交である。フロイトならいいねと言ってくれるかもしれない。

 

何が羨ましいのか、考えてみたけれどあまりすっきりしない。

神様にもいろいろあるので、とにかく神があればいいのかというと決してそうではない、と思う。別に「何でもいいから神様が欲しいぜ、おれも」ということではない。祈るべきなにごとかを持たないことは己の薄情さを認めるようで気が進まないが、祈る必要のあることがないのはよいことだ、と能天気に片付けてしまったって構わない。ましてや、自分の気づかぬ性的欲求不満がそう思わせているのだとしたら、とか、そんなことは考えたくもない。

彼らには頼るべき神がいるのが羨ましいのかもしれない。苦痛や不安に耐えかねる時、縋るべき何かをできるだけたくさん持っておくのが「精神的な独立」だ、という説を聞いたことがある。祈る彼らにも家族や友人やパートナーや、はたまた近所の八百屋のおばちゃんとか、行きつけのバーでたまに会うじいさんとか、頼る先はいろいろあるのだろう。それらに加えて神を持っている。神は彼らの告白を聞き届け、許し、指針と規範を与えてくれる。

そうだ。神は神であるがゆえに具体性を持たず、究極的には彼ら自身に内在するものであり、祈る神を持つということはすなわち、全知全能にして唯一無二、罪に穢れた衆愚どもを許し受容し導く大いなる存在を、内面化するということなのだ。

神を持つものは、神に祈りながら、許しを請いながら、煩悶する内心の混沌をさらけ出しながら、実は己自身でその祈りを聞き届け、罪を許し、己自身を苦しめるものごとに秩序を与えることができるのかもしれない。彼らは彼ら自身で自分を救うことができるのかもしれない。

神に縋る姿が弱々しく頼りなく見えたとしても、実際は違うのだ。彼らは己を救う方法を知っているのだ。

 

 

救われたいと思ったことは何度もある。けれど、何について救われたいのか、いちいち思い出せない。救われたいと言ってみたいだけなのかもしれない。

きっとこの先も私は祈るべき神を持たずにゆくのだろう。たとえ許されなくとも、救われなくとも、その罪業と恥知らずゆえに死ぬまではそのまま歩くしかないのだ。

それでもいつか、祈ることを知ったなら。祈るべき何かを迎えることができたなら。死ぬ瞬間には自分にできる精一杯でうつくしい祈りを捧げることにしよう。