さびしい炎(Remix)

音にして「さびしい」となる言葉を文字に起こすのに、どれが一番「さびしい」という感情に合うだろうかと考えてみたことがある。

「寂しい」「淋しい」「さびしい」どれも同じ音で似たような感情を表すようだけれど、違う。

「寂しい」は喪失感と後悔と諦念。いままでそこにあった音や動きや温もりがどこかに行ってしまって、追いかけることが出来ずに呆然と立ち尽くす。ほんの少し前まで手の中にあったはずのそれが、もう追っても手に入らないだろうと知っているからその場から動けない。

「淋しい」は、さんずいのせいだろう嫌に湿っぽいというか、水っ気が残る。オノマトペにしたら「めそめそ」とか「じめじめ」とか「しとしと」とかそんなところ、傘を忘れたふりをして雨の中に立ち止まるような、何かを期待している孤独のポーズ。

「さびしい」。何もない空虚にふと放り出すため息よりも希薄な吐息の、あたたかくもつめたくもない温度。あったはずのものが失われてしまった「寂しい」と違うのは、「さびしい」はただ気づいただけだからだ。失ったのではなく、もとより何もなかったということ。空っぽの箱を開けて、中身は失われたのではなくはじめから何も入っていなかったのだと気づいた瞬間の孤独の吐息だ。

 

カミュの『カリギュラ』を読みながらこんなことを考えていた。

カリギュラは不条理な暴君だろうか。いや、確かに彼の思いつきのような収奪や迫害や暴力は、その標的に選ばれた者にとっては十分に不条理だろうけれど、カリギュラそのひとは条理を捨てたわけでも、不条理を為そうとしたわけでもないのではないか。

カリギュラはただ「さびしい」のだ。

ドリュジラの死は彼に「寂しさ」をもたらしたかもしれない、が、カエサルたる彼の「寂しさ」を埋めるものはいくらでもある。「寂しさ」を拭うためにセゾニアとエリコンがいるのだ。父を殺されてなおシピオンはカリギュラのために涙を流すし、カリギュラにとってはケレアこそが空虚な王宮に音と動きと温度をもたらした。饒舌な演説、振り下ろす刃、そんな方法で。

カリギュラの世界は音や動きや温度に満ちている。そうあるように彼は殊更にグロテスクな乱痴気騒ぎを繰り返すのだ。ケレアの謀反こそ彼の待ち望んだ狂騒だ。カリギュラは「寂しい」のではない。「寂しさ」は所詮、一過性の感傷だ。

カリギュラ自身をしてその世界を破綻させたのは「さびしさ」だ。彼は気づいてしまった。音や動きや温度に満たされた彼の世界が極彩色に見えて実はそうでなかったということに。そして、音も動きも温度も色も、彼自身から生まれ出づるものではなかったということに。

世界はありのままでは充分ではない、とカリギュラは言う。そのままでは耐えられない世界という代物の上に立ち続けるために、彼が望んだのは「月」だ。最早何ひとつとして己の内にはないと知り、これから先も何ひとつとして産みだすことができないと悟り、何ひとつとして自分のものにならないというならば、誰も望まず、ゆえに誰のものにもならない「不可能」より他に求めるものはない。

皇帝は、彼自身が「さびしい」のだということに気づいてしまった。「さびしさ」を拭い去る手立てはない。ケレアはいい線まで行った、ふたりの魂と誇りはお互いに向き合うことができたが、しかし交わることはできなかった。謀反の証を火にくべるカリギュラが微笑むのは、束の間の幻想であったとはいえ、「さびしさ」を紛らわせることが出来たからだ。

彼の望みは世界の決まりを覆すことではない。ただ「さびしさ」を慰めたかっただけだ。セゾニアの無償の愛やエリコンの忠誠では「寂しさ」を埋めたとしても「さびしさ」はいや増しに深まるだけだ。彼らはカリギュラに尽くすばかりで、カリギュラに何かを求めはしないからだ。彼らは彼らなりに皇帝を愛しはするが、愛と忠誠を与える一方で彼から何か得ることを決して求めない。情婦と奴隷として至上の姿だが、愛と忠誠をつぎ込めばつぎ込むほどにカリギュラが空虚な箱であることが明らかになってしまう。彼らではカリギュラの空虚を払うことはできない。

カリギュラは「さびしい」のだ。自分ひとりでは何も創り出せないから。自分ひとりでは何も手に入らないから。空っぽの両手を持て余して、いつでも腹を空かせた醜い獣同然であることに気づいてしまったから、だから「さびしい」のだ。己という箱を開けて、そこにはこれからもこの先も何もないことを知ってしまったから、だから「さびしい」のだ。

かのカエサルは極めて無力で、呑み込むばかりで何も産み出せない、恐ろしく巨大な空虚である。そして彼自身がその空虚に呑まれて破綻しつつある。彼は「さびしさ」というブラックホールを認識し、立ち向かおうとする。「月」はついに届かないけれど、カリギュラは最後に叫ぶ。「さびしさ」に呑まれない恐らくはたったひとつの回答は、カリギュラ自身の断末魔となって世界に弾けるのだ。