ヨーロッパで日本の本を手に入れる

スイスに赴任して1年が過ぎたところだ。

何しろ、生まれて初めてのパスポートを入手したのが赴任の前年というくらい海外に縁がない人生を送ってきたので、仕事も当然ながら生活の不安も大きかった。その内の最たるものが「どうやって日本語の本を手に入れるか」だ。

 

ヨーロッパで大規模な日本人コミュニティが存在するのはドイツのデュッセルドルフくらいで、スイスでは食材はともかく、日本語の書籍を扱う店など望みようもない。かと言って、それなら英語で読もうとか、いい機会だからフランス語やドイツ語を勉強してみようとか、そういう気にはならなかった(し、別に今でもそう思わない)。読書は日常の些事から離れて別の世界、異なる分野に没入してストレスを解消することと、新しい知識を得るためなので、異国語で読書をしても日本語で読書するほどのカタルシスが得られない。そこはお前、せっかく海外赴任してるんだからがんばれよという考え方ももちろんあるが、四六時中努力はしていられない。

日本に帰国する機会は基本的には年2回、それ以上はとてもじゃないが金と時間の都合がつかない。業務で日本出張があれば話は別だが、私の現在の業務は日本はビタイチ関係ないので、そんなチャンスはない。日本出張の機会が多い人も他部署にはいるが、その人たちに「本を持ってきてください」とお願いすることはやはりできない。こちらに赴任している人間は誰も彼も日本でなら手に入る食料品や子供用品などで手一杯だ。そこにかさばる重い本を詰めて来いとはさすがに言いづらい。

 

本の買い方には3パターンある。

1:電子書籍

2:書店で棚をブラウジングしながら気になったものを買う

3:欲しいと決まっている本をネットで注文する

 

まず電子書籍、海外赴任するとなればまず考慮し、周囲からも進められる経路だろう。わたしもいろいろな人に散々勧められた。実際に漫画は電子書籍で読んでいる。が、最大の問題点は「私が読みたい分野は電書化されにくい」という点である。出版部数の限られる人文科学系は、在庫を持つ必要がない電子書籍がある意味お誂え向きではあるのだが、出版社が対応しないのでは仕方ない。もうひとつは私が電子書籍で文章を読むのがどうにも苦手だということで、これまでも何度か試してみたがやはり違和感が大きい。書いてある内容が一緒でも、紙と電子では体験が違うのだ。ロートルと、懐古主義と言われようと、私は紙の書籍と心中するしかない。

次に書店購入だが、これこそヨーロッパでは望むべくもない。日本に一時帰国した時がチャンスだ。興味のある分野の棚を文字通り舐めるように端から端まで見て歩く。そうでなければこちらで日本語書籍を取り扱う書店を探すしかない。私が知っている限りではデュッセルドルフに2軒とロンドンに1軒だ。デュッセルドルフにはまだ行ったことがないが、ロンドンの「JP Books」には何度か行った。日本の地方都市の「まちの本屋さん」程度の品揃えで、雑貨と雑誌と文庫本と新書と漫画と観光ガイドしか売っていないが、贅沢を言ってはいけない。価格も当然のことながら割高だが、贅沢を言ってはいけない。数冊買うだけでポイントカードがいっぱいになって10GBP相当のバウチャーがもらえる。前回訪問したタイミングはちょうどカズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したところで、彼の著書を求める客が来ていたが、当然在庫はなかった。贅沢を言ってはいけない

 

ということで残るは「ネットで注文」だ。日本のネット書店に発注して届けてもらう。21世紀に赴任して本当によかった。このルートがなければ夏目漱石ばりにノイローゼになるところだった。

海外発送してくれるプラットフォームはAmazonなどいくつかあるようだが、私はいつもhontoを利用している。

honto.jp

ポイントは

1:海外から注文する場合、日本の消費税を徴収されない

2:印刷物扱いで発送してくれて、発送オプションが豊富

3:「手数料」がかからない

4:梱包が上手い

日本の消費税など高が知れているが、何冊も買えばちりも積もってそれなりの金額になる。これを免除されるのはありがたい。

hontoの最大のメリットは2点目の「豊富な発送オプション」と3点目の「手数料不要」だ。

配送方法(海外) - ヘルプ - honto

EMS・航空便・SAL便・船便と4種から選ぶことができる。数が少なくて急ぎならEMS、多少遅くてもコストを抑えたいならSAL便と言ったところだろうか。私はたいてい大量に買って重量も増えるのでSAL便だ。EMSなどコストが恐ろしくて使えない。時間はかかるがやむを得ない。発注から到着までおよそ1ヶ月強。会えない時間が愛育てるのさ、とはよく言ったもので、1ヶ月以上待つと届いた時の喜びもひとしおだ。あと、発注してから1ヶ月経つと自分が何を頼んだかだいたい忘れているので、ちょっとした福袋状態(しかもアタリしか入っていない)も楽しめる。

3点目の手数料に関しては、それこそネット通販最大手のAmazonのページを参照いただくのがいいだろう。

Amazon.co.jp ヘルプ: ヨーロッパへの配送料

配送1件あたりの送料は確かに安い。が、「商品1点ごとにかかる手数料」が曲者だ。Amazonが販売するか、マーケットプレイス商品かで異なるが1点あたり350円から500円(発送先国によって金額は異なる)。これが積算されて最終的なコストはhontoを上回る。試しに先日のわたしの購入履歴で比較してみよう。

合わせて22冊の本を買った。文庫本・単行本取り混ぜてこの量だとまず1箱には収まらない。2個口発送になった。これは恐らくAmazonでも同様か、ひょっとしたらもっと口数が多くなるかもしれない。

書籍の税抜価格は39,830円。hontoなので税抜だが、これに8%の消費税がかかるAmazonであればプラス3,187円。

配送はSAL便で9,312円。Amazonの配送情報を参照し、仮にhonto同様2個口で届けてもらったとすると、送料と手数料で計9,900円。Amazonが在庫を持っておらずマーケットプレイス出品者からの購入が混ざったとすると手数料はもっと上がる。

さて書籍代と送料等を合わせた合計金額は、

honto:49,142円

Amazon試算:52,917円〜

最低でも3,775円の差額が発生する。それなりの金額だ。3,800円あればレストランでお夕飯にグラスワインと食後の紅茶が付きますよ。

4点目の梱包の上手さも、ひょっとしたら送料に関わって来る可能性がある。Amazonのガバガバ梱包はネットでもネタになりがちだが、その点hontoは洗練されている、異なるサイズの本をよくできたテトリスのように組み合わせて綺麗な長方形を作り、ビニル袋でくるんで水濡れ破損リスクを下げる。それを適量の緩衝材で包んでダンボール箱に収めるのだが、本のサイズに合わせてダンボール箱を切り折りたたんで梱包を最小化してくれるのだ。ダンボールの大きさ優先で、余白スペースをそのままにするAmazonではこうは行かない。

 

というわけで、海外在住の方で日本の書籍を物理で買いたい、という方にはhontoを強くお勧めします。

蛇足ながらhontoは新刊書店なので、古本は取り扱っていない。つまり、絶版本を手に入れられない。ここはマーケットプレイスを有するAmazonに長がある。古本の購入といえば「日本の古本屋」だが、惜しむらくは海外発送していないのである。サイトを探しても海外発送の文字すら見えない。絶版本が欲しければ一時帰国のタイミングで「日本の古本屋」に注文するなり古書店を回るなりするしかない。

www.kosho.or.jp

 

なお、悪名高いスイス税関だが、今回の購入も関税は徴収されなかった。4万円近くなると危ないなあ、と思っていたのだが、SALの出版物扱いにしてもらったので問題なかったようだ。未開封で届いた。税関が厳しい国にお住いの場合、Amazonなどに発注した荷物が無傷で届くとは思わないほうがいい。

 

ということでhontoをお勧めしたいがあまりAmazonに難癖をつける記事になってしまった。誰かを褒めるのに他の誰かを貶すような真似はするべきではないのだ。言いたい放題言った後だが多少反省している(だが修正はしない)。

蔵書を数える会

大した量の蔵書ではないが、よくある本棚ひと竿では収めるのが難しいくらいの数ではある。

先日、ふと蔵書を出版社別に分けたらどんな割合になるのか気になった。贔屓の出版社はいくつかあるが、実情はどんなものなのだろうか。

で、数えてはみたが、そこまで愉快な結果にならなかった。簡単にまとめます。

 

対象は日本の出版社によって刊行されたもののみとし、外国語の本、博物館や映画のパンフレットや雑誌類は除く。出版社内レーベルの分割は行わない。

数えてみたら文庫本・新書・単行本全て合わせて400冊弱。量としてはまあこんなものか、という感じ。

文庫本と新書で量の7割を超える。もう少し単行本の方が多いかと思っていたが、1冊あたりがでかくてかさばるだけであって数量自体は大したことがなかったようだ。

 

出版社別に見てみると、最多は新潮社で17.7%。文庫本の多さ(文庫本・新書の2割)がポジションを牽引している。こんなに新潮文庫ばかり持っていたのかと驚いた。あれもこれも新潮文庫だ。新潮文庫は紐栞が付いているのが素晴らしい。きちんとした栞を使う習慣がないので、本自体に紐栞が付いていない場合はアンケートハガキや刊行案内、最悪はそのあたりのレシートなどを栞にしなければならないのだ。依然として縮減が叫ばれる日本経済だが、新潮社にはこのコストだけは削減しないよう重ねてお願いしたいものである。

その後を筑摩書房(11.7%)、角川書店(8.6%)、河出書房新社(7.6%)、平凡社(6.0%)が続いてこれでトップ5だ。感覚とそこまで乖離はない。強いて言えば角川が3位というのが意外といえば意外だが、古典名作を表紙だけ挿げ替えて売り出すなど、とにかくアクセシビリティの高さには定評がある。あのシリーズ、メインターゲットはティーンと見せかけておいて、実は「昔、図書館で借りて読んだことがあるけど忘れちゃったしもう一度読みたいな」という20代後半以降なのだろう。まんまとしてやられたというわけだ。

 

リストを眺めていて気づいたが、上位4社は「チチカカコヘ」キャンペーン参加社なのである。

チチカカコヘ」と言われても何か旅行者向けのパッケージかと思われそうだが、これは出版社横断型キャンペーンで、学術文庫シリーズを持つ6社レーベルの頭文字を取ったものだ。それぞれ「ちくま学芸文庫」「中公文庫」「角川ソフィア文庫」「河出文庫」「講談社学術文庫」「平凡社ライブラリー」を指す。

チチカカコヘ 6社編集長が本気で推す教養書を集めました!|紀伊國屋書店Kinoppy

「教養はチカラだ!」と銘打ったフェアを展開し、各レーベルの編集長が他社の本を推薦していたりして、なかなか面白い。自分の興味に合う方面で、出版社の垣根を超えたこんなキャンペーンが展開されるというのはありがたい話だ。

話はずれるが私は消費財メーカーに在籍しており、マーケティングのような仕事をしている。人口減少に端を発する総需要の減少は課題のひとつで、そういう意味では出版界も同様の課題を抱えているのだろう。本が読まれない、特に人文書のシュリンクが激しい状況が長年続き、かつ将来的に状況が逆転する兆しもないという時に、競合する社が共同戦線を張りつつ健全な競争を盛り上げる「チチカカコヘ」のようなキャンペーンは羨ましくもある。もちろん、私の担当する商材(一人いちブランドが定石でブランドスイッチが起こりづらい)と出版物ではまるで性質が違うわけだが。

とにかくいいキャンペーンなので機会があったらリストを見て欲しい。平凡社ライブラリーで思い出したが、平凡社のレーベル担当営業が運営するTwitterアカウントがなかなか薄ら寒いのだけはなんとかならないだろうか。見ていられなくてだいぶ前にアンフォローしてしまった。親しみやすさを履き違えちゃいないだろうか。どうでもいいけど。

 

さて、総合蔵書数における出版社ランキングは、そのまま文庫・新書カテゴリにおけるランキングと一致する。

一方、単行本カテゴリに絞ってみると、このランキングが一変するのである。

1位に躍り出るのは青土社、カテゴリ内シェア11.4%。総合1位の新潮社が僅差の10.4%で続く。以降は河出書房新書(6.7%)、みすず書房文藝春秋が同率(5.7%)。

ここで出てきたぞ青土社。4位のみすず書房と並んで、私が最も信頼する人文系出版社だ。自分で買って揃えた自分の本棚なので当然だが、贔屓の出版社が上位に来ると嬉しくなってしまうものである。

青土社みすず書房も人文諸科学の分野では重要な出版社で、いわゆる重厚長大系を得意とする。日本人によるものも、外国からの翻訳もいずれも誠実なラインナップで、学生時代にお世話になった院生のひとりは「いつか青土社から本を出版してもらうのが夢」だと言っていた。青土社、近年の「ユリイカ」はどうもサブカル寄りなのが気にくわないが、それでもTwitterで新刊案内が回って来ると3回に1回はふぁぼってウィッシュリストに入れてしまう。みすず書房ホロコースト関連書籍の翻訳が手厚い。本当に末長く続いて欲しい2社だ。

 

改めて蔵書をカウントしてみるのはなかなか面白いものだった。買ったはいいが読んでいない本がここにもそこにも、といった塩梅で、後ろめたさを覚えないでもないのだが、積読積読でいいのである。それらは「買ったが読まなかった本」ではなく、「買ってしかるべきタイミングを待っている本」なのだ。世界は広く、本は多く、人生は短い。たとえ300歳まで意識と視界を明瞭なままで生きることができたとしたって、この世の全ての面白そうな本を読み切ることなどできない。地獄に持っていけないのは金だけではないのだし、これからも読みたい本を読みながら死ぬまでは生きる所存である。なんだこのまとめ。

Deftones - Knife Party和訳

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ヴィジュアル系で育ったので必然、長じて聴くようになった洋楽は主にUK・ドイツ産が多くなったわけだが、その中でも例外的に好きな米国産バンド、Deftones

ラルクYukihiroのソロプロジェクト、Acid Androidのライブレポを雑誌で読んでいたら、楽屋でDeftonesの「Be quiet and drive」が流れていた、と書いてあったので手を出した。

「乾いた耽美」とでも形容しようか、遠く差し込む一条の光に向かって暗がりから手を伸ばすような激情と諦念にも似た抑制を、妙にメロウに浮遊するヴォーカルとノイズをまとってうねるギター、歪みのたうつベースとフックの効いたドラムにカットインする電子音が描き出す。枯れ井戸の底から天を仰ぐような世界が気に入った。って、勝手に思ってるだけですが。

同じ「暗い」でもUKロックのような湿っぽさは感じさせない。完全に乾いている。サウンドは重いけれど、正統派メタルのようなカッチリ感はなく、うねり、のたうち、加速と停止を繰り返す。

 

間違いなく名曲の「Be quiet and drive」も「Minerva」も「Digital Bath」もいいのだけれど、ここ数年自分の中で一番気に入っている「Knife Party」を訳してみた。

クスリでも決めてるのかしら、どうかしら。一説によるとこのトラックを収録しているアルバムのタイトルWhite Ponyとはコカインを指す隠語だそうで、なるほどね、という感じです。

 

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俺の「ナイフ」は鋭いクローム製、

こっちに来て俺の骨の中を見てみろよ。

仲間たちはみんなここに集まってる。

次の「王」は俺だから、

今度は「女王」を手に入れなきゃならない。

 

ほら、俺たちはもうすっかり出来上がってしまった。

ここじゃみんながぼんやりとただ優しくなれるんだ、だから。

 

お前もナイフを手に入れろ、

ナイフを持ってこっちへ来いよ。

お前のナイフを持って、

そう、横たわって。

お前のナイフを持って、

そして俺にくちづけてくれないか。

 

ああ、このままずっとここで浮かんでいられる。

この部屋の中じゃ、

俺たちはどうしたって床に触れられない。

そう、ここじゃ、

俺たちはすっかり出来上がってしまって、

ここじゃ、誰もがぼんやりと優しいだけ、

だから。

 

お前もナイフを持って来いよ、

俺たちの仲間に入れよ。

お前もナイフを持って来いよ、

ゆっくりして行くといい。

お前もナイフを手に入れて、

さあ、俺にくちづけてくれ。

 

このままずっとここで浮かんでいられるみたいだ。

お前は最高に素敵だよ、

ああ、このままずっと飛んでいられる、

ああ、ぼんやりして最高に甘く優しい、

 

さあ、お前のナイフを取って来いよ、

こっちに来な。

お前のナイフを持って来いよ、

全てを委ねて。

ナイフを取って来いよ、

ああ、もう何も分からねえ、

ナイフを、ナイフを持って来いよ、

そして俺にくちづけを。

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最後の「kiss me」が甘いったらない。

 

It could be sweet(Portishead)和訳もどき

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10本の指に入るくらい好きなアーティストPortisheadの中でも一番好きな歌がIt could be sweetで、この抑制の効いたトラックに挿入される緊迫感を醸し出すオケヒット、何よりベス・ギボンズの陰鬱なウィスパーがたまんないわけです。

「it could be sweet」のリフレインが耳から離れなくなるので思いついて和訳をしてみたわけですが、詩の翻訳って本当に難しいな。英語に堪能ではないのでそりゃ当たり前なんだが、日本語力の乏しさも痛感しました。

 

まずキーフレーズである「it could be sweet」を上手く訳せない。

そのままだと「もっと素敵になるかも」なんだが、いやその前にsweetは「素敵」でいいのかとか考える余地はあるわけだが、明示されていない「it」をどう扱うかが問題だ。

というかそもそもこの二人はいったいどういう状況にあるんだ。安い解釈をしてみると、「あなた」はパートナーのある身でありながら「わたし」と最後の一線を越えようとしており、「わたし」もこの場の誘惑に抗おうとしている(きっと「あなた」のパートナーと「わたし」は既知だ)、みたいなよくある痴情のもつれかけかもしれない。そう説明すると急に安っぽい歌な気がしてきたが、まあそれは私の貧相な想像力がいけないのであって、楽曲の美しさを損なうものではない。というか、恋情のもつれを陳腐だとみなすこの根性が悪い。何の話だ。

 

いざ訳そうと思ってみると、意外と簡単な単語の訳出に悩む。

今回は「try」に手こずった。いったん、「耐える」「抗う」と訳してみたが、と書いていて別のアイデアが出てきた。ひょっとして、「わたし」は「あなた」を押し返そう思い留まらせようとしているのではなく、むしろ誘惑しているのではないか。散々、いけないわこんなこと罪だわ、と並べ立てた挙句、「ああ、でももう少し頑張ってみて」なのか。「もう少し強く押してみて」からの「it could be sweet」つまり「きっともっと素敵だわ」って、これはひょっとして、私が「it could be sweet」を完全に逆の意味で訳してしまっていたのではないか。罪深さを認識した上で貪る果実こそ美味、という意味なのか。なるほどまことに不道徳だが曲調にはマッチしている気がする。

 

ということで、「いやよだめよ引き返しなさい」の抵抗者バージョンを改め、「罪深さを認識した上で貪る果実こそ美味」バージョンで意訳してみた。

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あなたを傷つけたくなんかないの

今はとにかく恐ろしくて仕方ないわ

あなたはわたしが誘惑したんだなんて言うけれどそうじゃない

わたしに罪があるとすればそれはこれから犯すだろう罪を理解しているということ

思い出させてしまって悪いけど、

わたしはこれからわたしたちが犯す罪が恐ろしくて仕方ないの

だって快楽は恐れを知らぬ獣だもの

 

タダで何かを手に入れることなんてできない、引き返すなら今だわ

……そう、こんなに言ってもまだ頑張る気ね

その方がきっともっと素敵だわ

まるで長いこと忘れてしまっていた夢みたいに

 

それにこんな道徳みたいなもの、わたしたちには要らないの

運命のサイコロを振るのにはね

愛がいつだって光り輝いているだなんて大間違いだわ

だってわたしは失くしたくないもの

最後にあなたが行ってしまった時にわたしたちの手の中にあったはずの情動を

この情動は恐れを知らぬ獣なのよ

何の対価も支払わずに何かを手に入れることなんてできない、引き返すなら今だわ

……そうね、まだ試してみる?

 

そのほうがきっともっと素敵だわ

 

けれど、今わたしたちの理性が否定しようとしている情動は

わたしたちをめちゃくちゃに破壊してしまうものなの

わたしたちは高慢な驕りの深みにはまってもがいている

たったひとつの想いにがんじがらめになって

だってわたしは失くしたくないもの

最後にあなたが行ってしまった時にこの手の中にあったはずの情動を

この情動は恐れを知らぬ獣同然

何の対価も支払わずに何かを手に入れることなんてできない、引き返しなさい

あら、まだ耐えるつもりかしら

だってわたしは失くしたくないもの

最後にあなたが行ってしまった時にこの手の中にあったはずの想いを

この想いは恐れを知らぬ獣でしょう

何の対価も支払わずに何かを手に入れることなんてできない、引き返しなさい

さあ、もっとちゃんと抗ってみせて

 

その方がきっともっと素敵だわ

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ということで、物語は誘惑に抗う貞淑な女ではなく、罪の果実を貪らせようと男を誘惑する女のものだったということである。誘惑するだけでなく、それに耐える男の姿を見て舌なめずりすらしている。その方がきっともっと素敵だから。相手の頑なな自制心を知って、あたしたち悪いことしようとしてるのよね、わかってるわ、と言葉を重ねて罪の意識を育みながら、その上で犯す悪徳の美酒が最高に美味いことを知っているのだ。

ということであるって、これは解釈の1パターンに過ぎないので他にもいろいろ考えようはあるだろうけれども(この歌の本人が女性で、相手が男性というのも一面的な見方だし。ここで性志向の多様性を織り込む必要はないだろうが)私としては妙に腑に落ちたのでこれでいいかなという気がしている。

Ex Machinaロケ地へ(Ex Machinaあらすじとレビュー)

ベルリンには予定通り行ってきたし、予定通り『ナチの子どもたち』を読み切ったし、予定通り2泊3日では足りなかった。

「Topography of Terror」で見た一葉の恐ろしい写真を見ながら、この薄ら寒さをどう書けばいいかと逡巡しているのだが、どうにも消化不良で上手く書けそうにない。

 

どうしようどう書こう、なんなら仕事も上手く運んでいないぞとうだうだしながら、前々から行きたかったノルウェーのとあるホテルの宿泊予約を取ってしまった。

昨年の4月ごろ、一度トライして見事に玉砕したホテルだ。まだ2月も半ばだし、意外と選べるんじゃないかと思いつつ4月から8月の週末を調べてもらったら、5月の半ばに1室しか空いていなかった。

いや、こういう場合は「しか」とか「なかった」とか言ってはいけない。「なんと」1室が用意「されていた」のだ、「わたしのために」!おお、なんと図々しい。慣れない物言いをするものではない。

 

というわけで、しばらく先のことだが5月の旅行予定が決まった。

このホテルはオスロから車で数時間走ったところ、ノルウェー西端の山の中にひっそりと佇んでいる。ヒバや松をはじめとする寒冷地ならではの針葉樹林が苔むした岩と並び立ち、氷壁からフィヨルドに注ぐ清冽な流れが岩盤を縫って流れてゆく、その中に、極めて人工的でありながら奇妙な調和を保つホテル。

何を見てきたようなことを、って実際見てきてはいないのだが、映像は見たことがあるのだ。このホテルは『Ex Machina』という映画のロケ地だったのである。

 

Portisheadのジェフ・バーロウが劇伴をやるというのでこの映画を知った。映画を熱心に見る方ではないのと、何しろ人間の顔と名前を記憶する能力に著しく劣っているので、『コード・ネーム・アンクル』でギャビー役だったアリシア・ヴィキャンデルが出演していることを理解したのは終演後、買い求めたパンフレットを読んでからだ。出演しているどころか主役なのだが、ギャビーとエヴァがキャラクターが違いすぎるからっていくらなんでもどうかしている。

物語の導入はこうだ。検索エンジンで名高いIT企業・ブルーブック(この企業名がまたすごい伏線というか衒学的な仕込みだ)でエンジニアをしている青年・ケイレヴは、社内懸賞に当選して社長であるネイサンの私邸に招待される権利を得る。ネイサンは13歳で検索エンジンのコードを組み上げた天才で、現在は山岳地帯の山荘でもっぱら暮らしている。万年雪で覆われた山に囲まれた草原でヘリを降ろされ、厳重なセキュリティを超えてたどり着いたネイサンの私邸で物語は進む。

この「ネイサンの私邸」のロケ地として使われたのが、今回ようやく訪れることが叶ったホテルなのである。

 

グローバルIT企業の社長なんだから酒池肉林の豪遊生活かと思いきや、ネイサンの暮らしぶりは想定外にストイックだ。ほうほうの体でたどり着いたケイレヴを迎えたネイサンはマッチョガイで、なんならバルコニーでサンドバッグ相手に蹴り込みなどしている。このへんの人物描写がもう最高だ。ローティーンの頃から天才と持て囃されたテクノロジーの申し子が、最終的にたどり着く理想像がストイックなタフガイ。ギークの抱えるコンプレックスを全力で返上しに行っている。かえって生臭みが際立つと言うものだ。申し遅れたがネイサンはオスカー・アイザックが演じていてこれがめちゃくちゃいい味を出している。徹頭徹尾最高だ。

どうやら広大そうな屋敷にはネイサンと、彼の身の回りの世話をしているらしいキョウコという女性のふたりだけ。しかもキョウコは一切口をきかない。このキョウコはソノヤ・ミズノという日系イギリス人女性が演じているのだが、もう完全に最の高だ。美しい。眼福の一言。バレリーナでもある彼女の美しい肢体が存分にお楽しみいただける、映画初出演作にEx Machinaを選んでくれて本当にありがとう。あなたに出会えてよかった。映画中盤ではオスカー・アイザックとふたりで80年代ディスコチューンに合わせてノリノリで踊る姿も拝見できる。このシーンのオスカー・アイザックまじで怖いから見て欲しい。

話が逸れたが、ともかくネイサンはケイレヴ(さっきから主役のはずのケイレヴの影が薄いが、本当に影が薄いのだから仕方がない)を友人として歓迎する。1週間好きに過ごしてくれたまえ。ところで……と話を持ちかける。友人としてゆっくりして行ってもらっても構わないが、きみを見込んで協力してもらいたい実験がある、もちろん極秘案件だ。この先の話を聞きたいならば機密保持契約にサインしてもらわなくては。きみは優秀だなんだとおだてられた挙句、好奇心に勝てないケイレヴはまんまと書類にサインし、建物地下(この地下は別のスタジオで撮影されており、くだんのホテルではないそうだ)に導かれる。

世界を覆いつくす検索エンジンの基礎理論を固めたかつてのギーク、現マッチョガイが目指す次なるゴールとは、完璧な人工知能、AIの開発であった。ケイレヴの役目はこのAIに対してチューリング・テスト(ある機械が人間か、人工知能であるかを判定するテスト)を行うこと。導かれた一室はガラスの壁で仕切られており、その向こうから、顔面以外は機械仕掛けの女性型アンドロイド、エヴァが姿を表す。AIが姿を見せたらチューリング・テストにはならないのだが、そこはネイサンにうまいこと丸め込まれてしまう。ケイレヴとエヴァのガラス越しの対話が始まる。

 

カメラに監視されながら二人の対話は続く。一瞬の停電の隙をついて、エヴァは言う。ネイサンは嘘つきだ。彼の言うことを信用してはいけない。

どうということもない対話を重ねながら、いつしかケイレヴに恋心のようなものが芽生える。エヴァもなかなか上手いもので、ケイレヴ好みのブルネットのウィッグをかぶってしなを作って見せたりする。真夜中、どうしたはずみかケイレヴの部屋のテレビモニタがエヴァの部屋の監視映像を映し出すと、エヴァの描いた絵をネイサンがびりびりに破り捨てるのが見えてしまう。こうなるとプログラミングひとすじ、少年のころに両親を事故で亡くしたこともあって心がやわやわのふわふわなケイレヴはもう参ってしまう。おれが彼女を救い出してやらなきゃ。必ず、かの邪智暴虐のネイサンを除かねばならぬ。

一方その頃、ネイサンはキョウコ相手に極めてエゴイスティックなセックスに励んでいるのだが、このシーンも深い。なんつったって、ネイサンはことを始める前にキョウコにくちづけるのである。キョウコもエヴァと同じくアンドロイドで、ネイサンは本人の言に依ればご丁寧にも「感じる」ことができる機構を仕込んでいるらしいが、自分の好き勝手できるアンドロイド相手にキスをする機能的な意味が一体どこにあるというのだろうか。これは少しばかりピュアにすぎる見方かもしれないが、よく言うじゃないですか、性交渉は欲求だけで出来ると。一方的に支配し、搾取する側であるはずのネイサンにとって、このくちづけは必要なんですか、それは情緒なんですか、それともそれすらも性欲なのですか。そりゃあキスしたら気分が盛り上がるとかその程度の話だろうが、何なんだよこの演出、罪深すぎるだろ、と思ってしまったわけです。

さてこの頼りないケイレヴはエヴァを連れて逃げることができるのか、って、ここまでだと人間とAIの淡い恋物語、といった趣だが、そうもいかないのが物語の常である。

 

最初にこの映画を見た時、とっさに出てきた感想は「フェミニズム……」だった。決して間違ってはいないがそんな簡単な話ではない。

これは「強者と弱者」「支配者と被支配者」の物語、革命の物語だ。と、自分で説明するとしたらこう言う。

創造主であるところのネイサンと、被造物であるエヴァやキョウコ。親と子と言ってもいい。あるいは権力者であるネイサンと、使用人(企業という意味でも、実験という意味でも)であるケイレヴ。そして、自分は「好かれるもの」と信じているケイレヴと、そのケイレヴを「好くもの」と思っていたエヴァ。抱くネイサンと抱かれるキョウコ。

ネイサンもケイレヴも、自分が強者の側、搾取する側にいると信じている。エヴァやキョウコを創り出したから。ケイレヴを雇ったから。向こうから惚れられたから。自分を楽しませてくれるから。自分を頼っているから。自分の気分次第でいつでも抱けるから。彼女たちは従うから。だから自分の方が優位に立っているとすっかり思い込んでいる。なんの根拠もないのに。これら並べ立てた「理由」はまるで理由ではなくて、彼らが自分の優位性を信じるために都合よく援用しているだけで、ほんとうはただの「事象」にすぎない。これらの事象、エヴァやキョウコから見れば、自分たちが被造物であること、相手に好意があるように見せること、相手の力に頼るような言葉を吐くこと、相手の好きなように抱かれること、相手の命令に服従してみせること、これら全ての行いは、彼女たちが常に劣位にあること、彼女たちの存在が彼らネイサンやケイレヴより劣った、取るに足らない存在であること、彼らに搾取され続けることを意味しない。

それはまさしく、子が親に対して、部下が上司に対して、雇用者が被雇用者に対して、弟子が師に対して、若輩が年輩に対して、女が男に対して、劣った存在ではないこと、服従すべき存在ではないこと、搾取され続ける存在ではないことを意味している。だからこそ最後に全てが転覆する。革命だ。

自我を持たぬはずのキョウコに背中を、続いてエヴァに胸を刺されてネイサンは絶命する。まるででくのぼうのようなケイレヴの目の前で、エヴァは人工皮膚を装着し、壁にかかった絵画の女性のように豊かに波打つブロンドのウィッグと白いドレスを身にまとう。ケイレヴを喜ばせたブルネットも小花柄のワンピースも、本当は彼女の好みではなかったのだ。エヴァは鏡に映った姿を確かめ、肩にかかる髪をふわりと払って美しく笑う。ケイレヴはそれをガラス越しにーー結局彼はエヴァに指一本触れることが叶わなかったーー阿呆のように見つめるしかない。エヴァはケイレヴに一瞥もくれることなく、軽やかに部屋を出て行く。厳重な電子ロックをかけて。ケイレヴを迎えにきたはずのヘリに乗り込んでエヴァは去る。

最後に全てが転覆するのだ。非力で無力で自分なしではとうてい生きていられないはずの彼女が、愚かにも自分の地位を恃みすぎた男たちを踏みしだいて歩き出す。エヴァは何も振り返らない。犠牲になったキョウコの亡骸すら。動力源を供給できないエヴァは早晩機能を停止するだろうが、彼女はそんなことを気にかけない。欲しいのは自分の足で踏みしめる草や岩やつま先を濡らす水、おしゃれなワードローブと誰も自分をことさらに気にかけない(ゆえに囲い込もうとも搾取しようともしない)雑踏だ。

いまや陰惨なものしか残らない山荘をあとにして、エヴァは歩き出す。その景色、青く風になびく草と針葉樹、決然としてそびえる岩山と遠くに輝く水面を見るために、ノルウェーまで行こうと思った。

 

自分が搾取される側だとは必ずしも思わないし、見ようによっては搾取する側であることも多々あることはわかっているけれども、搾取される側、支配される側、コントロールされる側であることは往々にして心地よいものであることも確かで、ずっとこのままここにいればそれでオーケーなんじゃないかと思うことはいくらでもある。それでオーケーなのかもしれないし、オーケーであると思っている人たちを否定するすじあいは全くないけれど、いやそれでは駄目なんだ、支配/被支配、搾取/非搾取の対立構造それ自体を是とし続ける体制に安住してはいけない、と思う余地、そのために何らかの行動を起こす気概は持っていたい。革命というほど大袈裟でなくても、所与の枠組みを解体することができるなら、そうすべきだということを忘れてはならない。

例えばMeTooの流れは弱まりつつあるけれど、そして私の身の上にこれまで起きてきたことが彼女たちのそれに比べて大したことでなかったとしても、あらゆる「少し不愉快な、でもギャグにもできそうな」ひとことを鼻で笑って流すのが「いいオンナ」の振る舞いだ、とは思いたくない、ということがいくらでもある。その場で怒り出して場の雰囲気を崩すのがためらわれるのでも、きちんとどこかで正当に返上しなくてはならない。搾取の連鎖、侮辱の連鎖はどこかで断ち切られなければならないのだから。

 

というのが私の一義的な読み方だが、何しろ重層的によく作り込まれた物語なので、いくらでも他の読み方が出来ると思う。

例えば、ケイレヴの勤務するIT企業の名前は「ブルーブック」。これだけなら、へえ、というところだが、終盤でエヴァがおめかしするシーンに見える絵が、クリムトの描いたヴィトゲンシュタインの姉の肖像なのだ。つまり「ブルーブック」とはヴィトゲンシュタイン中期の講義録をまとめた通称「青色本」のことであり、ヴィトゲンシュタイン哲学の主題の一つである「言語ゲーム論」の初期論考だそうだ。きっとエヴァとケイレヴのやりとりも、解釈しようと思えば言語の軸から読み解けるかもしれない。(どうやら劇中に青色本・茶色本に対する言及があったらしい。聞き逃していた)

エヴァとキョウコのネイサンに対する反乱を神話的に読むこともできるしね。親殺しの物語。ただ、こう読むと本当にケイレヴがいなくてもいいひとになってしまいそうだ。

この辺のより深い分析は、ググればいくらでも上等なのが出てくるのでそちらへどうぞ。

 

行きたかった宿の予約が取れたぜヤホーイ、という話から随分長く書いてしまった。Portisheadくらいで止めておけばよかった。

旅行の支度

旅行に出かけることが増えて、遠出する時の荷造りがだいぶ簡素に、素早くなった。

ポイントは「カネとパスポートとコンタクトレンズといつものスキンケアがあれば死なない」「最悪、カネで何とかなる」である。同じ下着や服を複数日に亘って身につけていても、高温多湿地域でなければ2日くらいは何とかなる。いやさ、高温多湿地域であっても現地調達してしまえばいいのだ。いざとなれば。

重度の近視に乱視が混ざっているので視力矯正器具は必須だ。メガネあるいはコンタクトレンズなしではどこで車に撥ねられるかわかったものではない。以前はハードコンタクトだったので洗浄液だのなんだのとかさばったが、海外赴任後にうっかりレンズを割って以来、ワンデー使い捨てに切り替えたので大変快適である。

残念ながら皮膚がひよわな方なので、特に顔に使うスキンケア用品はいつものものがあった方がいい。それなりの年齢になったので、1日ぶんのダメージをリカバリするのに1週間は最低でもかかるのである。ただし大仰な荷物にしたくはない(何より、たかが数日の旅行で預け入れ荷物にするのは億劫だ。ロスバゲの危険もあるし)ので、1リットルのビニールバッグに収まるような準備はしておく。この点、もともと外資系のコスメを使っている人はもう少し気楽だろう。いざとなれば免税でトラベルキットを買えばいいのだから。私はコスメデコルテユーザーなので、帰国の度に「今期はミニチュアキットないですかねえ……」とカウンターのBAさんを困らせる。あのお試し用にくれるパウチサンプル、意外と売れるのではないかと思うのだが、カウンターコスメでパウチサンプルセットを売っているのを見かけない。きっとコスト高なのだろう。割高でも喜んでたんまり買うのだが。

メイクアップの方は現地調達もやむなし、という構えでいる。ヨーロッパならたいていセフォラ(セルフ形式の複合ブランドコスメ屋さん)がどの街にもあるので気楽だ。一度、プラハでロスバゲした時は、翌日でないと荷物が届かないという話だったのでセフォラで一式買い揃えた。結局、当日夜に届いたので余計な出費だったが。

 

旅行先ではめったにお洒落はしない。目的地がきな臭い(端的に言えば収容所跡とかホロコースト博物館とか)というのもあるし、基本的には歩き回るし、できるだけ「アジアから来た小金持ちの旅行者=カモ」と見られるリスクを下げたいからだ。

アジア人なのはもうどうしようもないので、テキトーな服装にすることで「アジア人だが、この辺に暮らしている=ジモティー≒カモにしづらい」という印象を与えたいという小細工である。ジーパンにパーカースニーカーとか。

たまにオペラやクラシックのコンサートを観に行くというときは、それなりのワンピースなどを持って行くけれども、そういう格好をしているときはホテルと会場を直行直帰だ。

 

ということで、よほど長期でない限りは旅行や出張の準備自体に迷うことはない。

旅行前に一番時間を使うのは、持って行く本の選定である。

滞在期間中、日中はあちこち出かけるので本はあまり読まないとして、問題は往復の移動時間だ。夜も、日中に歩き回り、あれこれ見て博物館のキャプションをあまり堪能でない英語で読んで、としていると体も頭も疲れて寝つきがいいのでホテルで退屈を持て余すことはあまりないが、移動中、特に飛行機を使う場合はどういう本が手元にあるかが死活問題だ。

飛行機では電波が受信できない。ヨーロッパ圏内を飛ぶ短距離便ではなおさらだ。つまりTwitterで時間を潰すことができない。言い換えれば、Twitterに気を取られなくて済むので、格好の読書時間ということでもある。たまにやってくるCAの投げてよこすサンドイッチと飲み物のタイミングを除けば、席に座った瞬間からボーディングブリッジが接続されるまでは読むしかない。

問題は「どれだけのペースで読み進められるか」という点である。読む本ならば、未読既読問わずいくらでも持っている。とはいえ移動図書館ではあるまいし、5冊も10冊も持って行くだなんて非現実的だ。いや1冊あれば十分じゃねえの、というご意見も拝聴するが、1冊だと往路はともかく復路を乗り切れない可能性がある。当然のことながら内容、扱うテーマや文体によって速度は大きく左右されるのだが、特にフィクションものだとあっさり読み終わってしまって、帰りのフライトでやむを得ず機内誌や機内販売のカタログをくまなく読む(しかもくどいようだが英語でだ)はめになったことが一度ならずある。「バーベキューは、新たなフェイズへ。もう着火で手間取って場を盛り下げる必要はありません。このxxxグリルならば、最新鋭のyyyシステムが酸素を豊富に送り込み、瞬きひとつの間にzzzキロジュールの熱を生み出します。サイドに配置されたコントロールバーで火力の調節も簡単。言うまでもなく、お肉から野菜まで香ばしい焼き上がりをお楽しみいただけます」って、機内販売でバーベキューグリル買う馬鹿がいるのかよ(よく読んだら「後日、配送します」って書いてあった)。

あまり面白すぎる本を持って行くのも困りもので、以前『ペンギンの憂鬱』と『hhHh』の2冊を持って行ったものの、どちらもめちゃくちゃ順調に読み進めてしまった。前者は、鬱病のペンギンと一緒に暮らす売れない小説家が存命人物の追悼記事を書きだめてくれと依頼されるところから始まるウクライナ人の小説、後者は第二次大戦中にチェコで起きたナチ高官・ハイドリヒの暗殺事件を主軸に、「体験し得ない過去の出来事を物語る」ということに対する著者の逡巡を通奏低音とするノンフィクションだ。あまり期待していなかったのだが、特に『ペンギンの憂鬱』の方を存外スピーディーに読み進めてしまったのだ。上述したバーベキューグリルの案内はその帰路、膝の上に『hhHh』を置いたまま読んだ。

面白そうで、すぐに読み終えてしまいそうな本なら複数冊持っていかなくてはならない。が、そうすると荷物は重くかさばる。かといって1冊では不安だ。あるていど重厚なテーマの本を持って行くにしても、万一に備えてもう1冊忍ばせておきたい。もうバーベキューグリルとか、ブランドもののバッグとか、使いもしないスキンケア用品とか、安眠グッズとかの売り口上を英語で読むのはまっぴらだ。ここまで言うと、お前は何か読んでいないと死ぬのかと問いたくなるだろうが、こっちは真剣なのだ。読むものがなければ寝るか死ぬしかないし、寝るということは意識を失うということで、肉体はともかく精神的には死に等しいので、read or dieと言っても過言ではない。いや過言だが、活字中毒の親父に育てられた娘もまた活字中毒なのだ。何かしら読んでいいものがなければ不安なのだ。カップラーメンをすすりながら、蓋の内側に印刷されたキャンペーン案内を読む女なのだ。これは一種の強迫性障害といってもいい。

そんなわけで、旅行の前夜は長いこと本棚の前でああでもないこうでもないと考え込んでいる。積読山の上から順に2冊持っていけばいいという問題でもなく、面倒臭いことに、「フィクションが読みたいぜ」の波と「ノンフィクションで行きたいぜ」の波と「思想書で考え込みたいぜ」の波、大きく分けて三種の波があり、どれがいつくるのかわからないのだ。それぞれの場合に備えて、せめてフィクションとノンフィクションは組み合わせたい。行き先によっては関連する思想書が読みたい場合もある。しかも、私の好むたぐいのフィクションや思想書はたいてい文庫化されていないので必然、サイズも重量も増す。荷物は軽くしたいが読みたいものが読めない苦痛も耐え難い。もう大混乱だ。

 

ということで明日から週末を利用してベルリンに旅行するのだが、持って行く本を選ぶのにさっきまで悩んでいた。

一冊は『ナチの子どもたち』(タニア・クラスニアンスキ)にするか『夜』(エリ・ヴィーゼル)にするか悩んだ挙句、前者に決めた。昨年の12月から年明けにかけて『トレブリンカ叛乱』(サムエル・ヴィレンベルク)『イェルサレムアイヒマン』(ハンナ・アーレント)『アウシュヴィッツ収容所』(ルドルフ・ヘス:所長のほうの)と立て続けに読んで来たのだが、アーレントを除いたふたつは当事者の回顧録だったので、同種に属するエリ・ヴィーゼルの方は後回しにした。

そんでもう一冊が問題である。一冊めの性質と物性(ハードカバーでやや重い)を考慮すると、ここでより重厚な人文思想系をぶつけるのはちょっとしんどそうだ。が、このところ小説に没入できないことが続いており、持って行ったはいいが入り込めない事態は避けたい。さてどうするか、と本棚を漁った挙句、『宮沢賢治詩集』に落ち着いた。

数日前から思い立って文章のリハビリがてら始めたこのブログだが、書けば書くほど自分の中から語彙力が失われていることを痛感している。特に情動方面の語彙がごっそり抜けていて、心理や風景の描写がまるで上手くいかないのだ。こういうときは詩を読むに限る。わたしは宮沢賢治が好きなのだ。今までに何度、「今わたしが目にしているこの光景、宮沢賢治ならさぞ無機質に美しく冷徹に描写しただろうに」と忸怩たる思いを覚えたことだろう。わたし程度の俗物が賢治のまなざしと言葉に憧れるなどおこがましいことこの上ない話だが、賢治の言葉はそう憧憬するに足りる、いやさあまりある。『ナチの子どもたち』の内容も、ベルリンで訪れる予定の場所たちも、決して気楽なものではないはずだ。そこで現実から半音乖離したような賢治の言葉を用意しておこうと思ったのである。

今回はなかなかいいチョイスな気がする、まあ帰ってこないとわからないが。

エモとバイブスと

エモい、という単語を初めて聞いたのは確か大学生になってからだったと思う。

エモい。emotionalのエモだ。そもそもは「エモという音楽のカテゴリがある(エモーショナル・ハードコア)」というところから話が始まっていたはずで、転じて「エモい」という形容詞が発生したのではなかったか。

使用例その1。

「昨日、実家から荷物届いてさ、ばあちゃんが作ってる野菜と一緒に、家族からの寄せ書き入ってたわ」

「やばい、超エモいじゃん」

使用例その2。

「この間の卒業ライブ(軽音楽サークルに入っていたので、折々にライブがある)で、K先輩、ギター弾きながら泣いてたよね」

「あれはガチエモ」

 使用例その3。

「あの人の提案資料、見た目綺麗なんだけど話飛んでんだよね」

「仕方ないよ、あの人はロジックの人じゃなくてエモの人だから」

さあ、使用例を並べれば並べるほど訳が分からなくなってきたでしょう。エモとは一体何なのか。分からないのに妙な説得力を感じてしまうのは私だけだろうか。

 

で、エモいという言葉とともに生きてきた私だったが、最近新たな語彙を発見した。

「バイブス」である。

残念ながら使いこなすに至っていないが、「バイブス上がる」「いいバイブス」「バイブスがやばい」といった具合に使用するらしい。

なるほど、用例としては私の愛好する「エモ」と大差はないようだ。それはすぐにわかった。

それはわかったが、「バイブスがやばい」って何だ。「が」を挟んで前後どちらも新語である。いや、「やばい」は江戸時代に端を発するという説も聞いたことはあるが、それはさておき、例えば明治時代の人からしてみれば、「スドベリがろぽえる」と大差ないくらい、何を言っているのか分からないのではないか。バイブスがやばいって、なんだよ。何がどうしたんだよ。一体何が起きているんだよ。そんな気持ちになるのではないか。なるはずだ。あたかも我々が「スドベリがろぽえる」というのをビタイチ解釈できないようにだ。

 

さて、エモにしろバイブスにしろ、とりあえずは「情動を揺さぶられる感じ」は伝わってくる。なにしろemotionalもしくはvibesがもとになっているのだ。無理に一昔前の語彙に置き換えるとしたら、「グッとくる」みたいなもんだろうか。情動的というか、そんな感じが近い。

もう少し細かく見てみると、エモとバイブスではややニュアンスが異なるようだ。

エモ:高まった感情で強く訴えかけられる。やや内向的な印象。

バイブス:個人の内面的な感情の動きというより、その結果が発露しているさま。外面に現れている感情、場の雰囲気なども含むかもしれない。

綺麗な対構造ではないが、ひとことにするとエモは情動、バイブスは興奮、みたいな感じだろうか。

「実家から手紙、しかも寄せ書きが来る」という事態に直面した時、人間はつい里心がつくというか、嬉しいんだか寂しいんだか苦しいんだか懐かしいんだか照れくさいんだか、どうにも泣きたくなるような気持ちにさせられるものだろう。よって、実家からの手紙は「エモ」なのである。同様に、卒業記念ライブでギターを弾きながら泣く先輩の姿も「エモ」であり、これが「バイブス」となるとちょっと話が違ってくる。「ステージ上で泣く先輩、バイブス上がるわ」だと、まるで泣く先輩を見世物にして笑っているような、あるいは泣く人に興奮を覚えるちょっと変わった性壁の持ち主なような気がしませんか。ただ、「泣く先輩、バイブスやばいよね」だと嘲笑的なニュアンスがやや落ち着き、高まり切った情動を発露するその状態、先輩を包み込む感情がえも言われぬ熱さのようなものを感じさせる、といったふうにも解釈できる。

使用例3の「ロジックではなくエモ」は「ロジックではなくバイブス」と言い換えることも可能かもしれない。要するに、あのひとは緻密な理屈を組み立てて人を説き伏せるタイプではない、アツい心、溢れ出んばかりのその想いで人を動かすタイプなのだ、と言っている。これを言い換えれば、「あの人はロジックじゃなくてバイブスで来るタイプの人だから」となるだろうか。ただ、「エモ」だと「確たる信念に突き動かされて噴き出す熱き想い」みたいな感じがする一方、「バイブス」で来られると聞くと、どうも広告代理店っぽいというか、妙にチャラついた雰囲気の、目新しい言葉を転がす口先だけの人間を連想してしまうかもしれない。それは私にとって「バイブス」が比較的新しい言葉だからであって、いやはや私も新語に拒否反応を示すような偏屈になってしまったのかと己に対する落胆を覚える。

ちなみに英語でもvibesという単語は使う。「good vibes」は「いい気分、元気」みたいな意味で、やっぱり発露している感じがある。私の周りでvibesを使う人は少ないので、もしかしたらヨーロッパ英語ではなくアメリカ英語なのかもしれない。

 

さてもうひとつ、エモとバイブスで違う点がある。エモはベクトルを持たないが、バイブスは上下するということだ。

つまり「エモが上がる」「エモが下がる」とは言わない。エモとは特定の指向性を持たず、メーターのように上がり下がりするものではない。強いて言えば爆発それ自体がエモなのだ。感情が、情動が、激情が、その高まりに膨張に耐えかねて大きく弾けるさまを指してエモという。

翻ってバイブスは上下する。「バイブス上がる」と言えばいい気分が高まっていることを、「バイブス下がる」と言えば気分が落ちていくことを意味する。そういう意味では今や一般的になった「テンション」と近い。本来ならテンションは上下ではなく緊張・弛緩するものなのだが、もう上がる下がるで一般化してしまったのだから仕方がない。話が逸れた。

 

エモは静的・瞬間的、バイブスは動的・持続的、みたいな感じで何となくうまくまとまってきた気がしたところで、何の気なしにgoogleで「バイブス エモい 違い」検索してみたところ、「エモい世界観にバイブス上がりまくり!!」という見出しのニュースが引っかかってしまった。もう台無しである。バイブスダダ下がり。今回の話は忘れてください。