It could be sweet(Portishead)和訳もどき

www.youtube.com

 

 

10本の指に入るくらい好きなアーティストPortisheadの中でも一番好きな歌がIt could be sweetで、この抑制の効いたトラックに挿入される緊迫感を醸し出すオケヒット、何よりベス・ギボンズの陰鬱なウィスパーがたまんないわけです。

「it could be sweet」のリフレインが耳から離れなくなるので思いついて和訳をしてみたわけですが、詩の翻訳って本当に難しいな。英語に堪能ではないのでそりゃ当たり前なんだが、日本語力の乏しさも痛感しました。

 

まずキーフレーズである「it could be sweet」を上手く訳せない。

そのままだと「もっと素敵になるかも」なんだが、いやその前にsweetは「素敵」でいいのかとか考える余地はあるわけだが、明示されていない「it」をどう扱うかが問題だ。

というかそもそもこの二人はいったいどういう状況にあるんだ。安い解釈をしてみると、「あなた」はパートナーのある身でありながら「わたし」と最後の一線を越えようとしており、「わたし」もこの場の誘惑に抗おうとしている(きっと「あなた」のパートナーと「わたし」は既知だ)、みたいなよくある痴情のもつれかけかもしれない。そう説明すると急に安っぽい歌な気がしてきたが、まあそれは私の貧相な想像力がいけないのであって、楽曲の美しさを損なうものではない。というか、恋情のもつれを陳腐だとみなすこの根性が悪い。何の話だ。

 

いざ訳そうと思ってみると、意外と簡単な単語の訳出に悩む。

今回は「try」に手こずった。いったん、「耐える」「抗う」と訳してみたが、と書いていて別のアイデアが出てきた。ひょっとして、「わたし」は「あなた」を押し返そう思い留まらせようとしているのではなく、むしろ誘惑しているのではないか。散々、いけないわこんなこと罪だわ、と並べ立てた挙句、「ああ、でももう少し頑張ってみて」なのか。「もう少し強く押してみて」からの「it could be sweet」つまり「きっともっと素敵だわ」って、これはひょっとして、私が「it could be sweet」を完全に逆の意味で訳してしまっていたのではないか。罪深さを認識した上で貪る果実こそ美味、という意味なのか。なるほどまことに不道徳だが曲調にはマッチしている気がする。

 

ということで、「いやよだめよ引き返しなさい」の抵抗者バージョンを改め、「罪深さを認識した上で貪る果実こそ美味」バージョンで意訳してみた。

--------------------------------------------------------------------

あなたを傷つけたくなんかないの

今はとにかく恐ろしくて仕方ないわ

あなたはわたしが誘惑したんだなんて言うけれどそうじゃない

わたしに罪があるとすればそれはこれから犯すだろう罪を理解しているということ

思い出させてしまって悪いけど、

わたしはこれからわたしたちが犯す罪が恐ろしくて仕方ないの

だって快楽は恐れを知らぬ獣だもの

 

タダで何かを手に入れることなんてできない、引き返すなら今だわ

……そう、こんなに言ってもまだ頑張る気ね

その方がきっともっと素敵だわ

まるで長いこと忘れてしまっていた夢みたいに

 

それにこんな道徳みたいなもの、わたしたちには要らないの

運命のサイコロを振るのにはね

愛がいつだって光り輝いているだなんて大間違いだわ

だってわたしは失くしたくないもの

最後にあなたが行ってしまった時にわたしたちの手の中にあったはずの情動を

この情動は恐れを知らぬ獣なのよ

何の対価も支払わずに何かを手に入れることなんてできない、引き返すなら今だわ

……そうね、まだ試してみる?

 

そのほうがきっともっと素敵だわ

 

けれど、今わたしたちの理性が否定しようとしている情動は

わたしたちをめちゃくちゃに破壊してしまうものなの

わたしたちは高慢な驕りの深みにはまってもがいている

たったひとつの想いにがんじがらめになって

だってわたしは失くしたくないもの

最後にあなたが行ってしまった時にこの手の中にあったはずの情動を

この情動は恐れを知らぬ獣同然

何の対価も支払わずに何かを手に入れることなんてできない、引き返しなさい

あら、まだ耐えるつもりかしら

だってわたしは失くしたくないもの

最後にあなたが行ってしまった時にこの手の中にあったはずの想いを

この想いは恐れを知らぬ獣でしょう

何の対価も支払わずに何かを手に入れることなんてできない、引き返しなさい

さあ、もっとちゃんと抗ってみせて

 

その方がきっともっと素敵だわ

 --------------------------------------------------------------------

ということで、物語は誘惑に抗う貞淑な女ではなく、罪の果実を貪らせようと男を誘惑する女のものだったということである。誘惑するだけでなく、それに耐える男の姿を見て舌なめずりすらしている。その方がきっともっと素敵だから。相手の頑なな自制心を知って、あたしたち悪いことしようとしてるのよね、わかってるわ、と言葉を重ねて罪の意識を育みながら、その上で犯す悪徳の美酒が最高に美味いことを知っているのだ。

ということであるって、これは解釈の1パターンに過ぎないので他にもいろいろ考えようはあるだろうけれども(この歌の本人が女性で、相手が男性というのも一面的な見方だし。ここで性志向の多様性を織り込む必要はないだろうが)私としては妙に腑に落ちたのでこれでいいかなという気がしている。

Ex Machinaロケ地へ(Ex Machinaあらすじとレビュー)

ベルリンには予定通り行ってきたし、予定通り『ナチの子どもたち』を読み切ったし、予定通り2泊3日では足りなかった。

「Topography of Terror」で見た一葉の恐ろしい写真を見ながら、この薄ら寒さをどう書けばいいかと逡巡しているのだが、どうにも消化不良で上手く書けそうにない。

 

どうしようどう書こう、なんなら仕事も上手く運んでいないぞとうだうだしながら、前々から行きたかったノルウェーのとあるホテルの宿泊予約を取ってしまった。

昨年の4月ごろ、一度トライして見事に玉砕したホテルだ。まだ2月も半ばだし、意外と選べるんじゃないかと思いつつ4月から8月の週末を調べてもらったら、5月の半ばに1室しか空いていなかった。

いや、こういう場合は「しか」とか「なかった」とか言ってはいけない。「なんと」1室が用意「されていた」のだ、「わたしのために」!おお、なんと図々しい。慣れない物言いをするものではない。

 

というわけで、しばらく先のことだが5月の旅行予定が決まった。

このホテルはオスロから車で数時間走ったところ、ノルウェー西端の山の中にひっそりと佇んでいる。ヒバや松をはじめとする寒冷地ならではの針葉樹林が苔むした岩と並び立ち、氷壁からフィヨルドに注ぐ清冽な流れが岩盤を縫って流れてゆく、その中に、極めて人工的でありながら奇妙な調和を保つホテル。

何を見てきたようなことを、って実際見てきてはいないのだが、映像は見たことがあるのだ。このホテルは『Ex Machina』という映画のロケ地だったのである。

 

Portisheadのジェフ・バーロウが劇伴をやるというのでこの映画を知った。映画を熱心に見る方ではないのと、何しろ人間の顔と名前を記憶する能力に著しく劣っているので、『コード・ネーム・アンクル』でギャビー役だったアリシア・ヴィキャンデルが出演していることを理解したのは終演後、買い求めたパンフレットを読んでからだ。出演しているどころか主役なのだが、ギャビーとエヴァがキャラクターが違いすぎるからっていくらなんでもどうかしている。

物語の導入はこうだ。検索エンジンで名高いIT企業・ブルーブック(この企業名がまたすごい伏線というか衒学的な仕込みだ)でエンジニアをしている青年・ケイレヴは、社内懸賞に当選して社長であるネイサンの私邸に招待される権利を得る。ネイサンは13歳で検索エンジンのコードを組み上げた天才で、現在は山岳地帯の山荘でもっぱら暮らしている。万年雪で覆われた山に囲まれた草原でヘリを降ろされ、厳重なセキュリティを超えてたどり着いたネイサンの私邸で物語は進む。

この「ネイサンの私邸」のロケ地として使われたのが、今回ようやく訪れることが叶ったホテルなのである。

 

グローバルIT企業の社長なんだから酒池肉林の豪遊生活かと思いきや、ネイサンの暮らしぶりは想定外にストイックだ。ほうほうの体でたどり着いたケイレヴを迎えたネイサンはマッチョガイで、なんならバルコニーでサンドバッグ相手に蹴り込みなどしている。このへんの人物描写がもう最高だ。ローティーンの頃から天才と持て囃されたテクノロジーの申し子が、最終的にたどり着く理想像がストイックなタフガイ。ギークの抱えるコンプレックスを全力で返上しに行っている。かえって生臭みが際立つと言うものだ。申し遅れたがネイサンはオスカー・アイザックが演じていてこれがめちゃくちゃいい味を出している。徹頭徹尾最高だ。

どうやら広大そうな屋敷にはネイサンと、彼の身の回りの世話をしているらしいキョウコという女性のふたりだけ。しかもキョウコは一切口をきかない。このキョウコはソノヤ・ミズノという日系イギリス人女性が演じているのだが、もう完全に最の高だ。美しい。眼福の一言。バレリーナでもある彼女の美しい肢体が存分にお楽しみいただける、映画初出演作にEx Machinaを選んでくれて本当にありがとう。あなたに出会えてよかった。映画中盤ではオスカー・アイザックとふたりで80年代ディスコチューンに合わせてノリノリで踊る姿も拝見できる。このシーンのオスカー・アイザックまじで怖いから見て欲しい。

話が逸れたが、ともかくネイサンはケイレヴ(さっきから主役のはずのケイレヴの影が薄いが、本当に影が薄いのだから仕方がない)を友人として歓迎する。1週間好きに過ごしてくれたまえ。ところで……と話を持ちかける。友人としてゆっくりして行ってもらっても構わないが、きみを見込んで協力してもらいたい実験がある、もちろん極秘案件だ。この先の話を聞きたいならば機密保持契約にサインしてもらわなくては。きみは優秀だなんだとおだてられた挙句、好奇心に勝てないケイレヴはまんまと書類にサインし、建物地下(この地下は別のスタジオで撮影されており、くだんのホテルではないそうだ)に導かれる。

世界を覆いつくす検索エンジンの基礎理論を固めたかつてのギーク、現マッチョガイが目指す次なるゴールとは、完璧な人工知能、AIの開発であった。ケイレヴの役目はこのAIに対してチューリング・テスト(ある機械が人間か、人工知能であるかを判定するテスト)を行うこと。導かれた一室はガラスの壁で仕切られており、その向こうから、顔面以外は機械仕掛けの女性型アンドロイド、エヴァが姿を表す。AIが姿を見せたらチューリング・テストにはならないのだが、そこはネイサンにうまいこと丸め込まれてしまう。ケイレヴとエヴァのガラス越しの対話が始まる。

 

カメラに監視されながら二人の対話は続く。一瞬の停電の隙をついて、エヴァは言う。ネイサンは嘘つきだ。彼の言うことを信用してはいけない。

どうということもない対話を重ねながら、いつしかケイレヴに恋心のようなものが芽生える。エヴァもなかなか上手いもので、ケイレヴ好みのブルネットのウィッグをかぶってしなを作って見せたりする。真夜中、どうしたはずみかケイレヴの部屋のテレビモニタがエヴァの部屋の監視映像を映し出すと、エヴァの描いた絵をネイサンがびりびりに破り捨てるのが見えてしまう。こうなるとプログラミングひとすじ、少年のころに両親を事故で亡くしたこともあって心がやわやわのふわふわなケイレヴはもう参ってしまう。おれが彼女を救い出してやらなきゃ。必ず、かの邪智暴虐のネイサンを除かねばならぬ。

一方その頃、ネイサンはキョウコ相手に極めてエゴイスティックなセックスに励んでいるのだが、このシーンも深い。なんつったって、ネイサンはことを始める前にキョウコにくちづけるのである。キョウコもエヴァと同じくアンドロイドで、ネイサンは本人の言に依ればご丁寧にも「感じる」ことができる機構を仕込んでいるらしいが、自分の好き勝手できるアンドロイド相手にキスをする機能的な意味が一体どこにあるというのだろうか。これは少しばかりピュアにすぎる見方かもしれないが、よく言うじゃないですか、性交渉は欲求だけで出来ると。一方的に支配し、搾取する側であるはずのネイサンにとって、このくちづけは必要なんですか、それは情緒なんですか、それともそれすらも性欲なのですか。そりゃあキスしたら気分が盛り上がるとかその程度の話だろうが、何なんだよこの演出、罪深すぎるだろ、と思ってしまったわけです。

さてこの頼りないケイレヴはエヴァを連れて逃げることができるのか、って、ここまでだと人間とAIの淡い恋物語、といった趣だが、そうもいかないのが物語の常である。

 

最初にこの映画を見た時、とっさに出てきた感想は「フェミニズム……」だった。決して間違ってはいないがそんな簡単な話ではない。

これは「強者と弱者」「支配者と被支配者」の物語、革命の物語だ。と、自分で説明するとしたらこう言う。

創造主であるところのネイサンと、被造物であるエヴァやキョウコ。親と子と言ってもいい。あるいは権力者であるネイサンと、使用人(企業という意味でも、実験という意味でも)であるケイレヴ。そして、自分は「好かれるもの」と信じているケイレヴと、そのケイレヴを「好くもの」と思っていたエヴァ。抱くネイサンと抱かれるキョウコ。

ネイサンもケイレヴも、自分が強者の側、搾取する側にいると信じている。エヴァやキョウコを創り出したから。ケイレヴを雇ったから。向こうから惚れられたから。自分を楽しませてくれるから。自分を頼っているから。自分の気分次第でいつでも抱けるから。彼女たちは従うから。だから自分の方が優位に立っているとすっかり思い込んでいる。なんの根拠もないのに。これら並べ立てた「理由」はまるで理由ではなくて、彼らが自分の優位性を信じるために都合よく援用しているだけで、ほんとうはただの「事象」にすぎない。これらの事象、エヴァやキョウコから見れば、自分たちが被造物であること、相手に好意があるように見せること、相手の力に頼るような言葉を吐くこと、相手の好きなように抱かれること、相手の命令に服従してみせること、これら全ての行いは、彼女たちが常に劣位にあること、彼女たちの存在が彼らネイサンやケイレヴより劣った、取るに足らない存在であること、彼らに搾取され続けることを意味しない。

それはまさしく、子が親に対して、部下が上司に対して、雇用者が被雇用者に対して、弟子が師に対して、若輩が年輩に対して、女が男に対して、劣った存在ではないこと、服従すべき存在ではないこと、搾取され続ける存在ではないことを意味している。だからこそ最後に全てが転覆する。革命だ。

自我を持たぬはずのキョウコに背中を、続いてエヴァに胸を刺されてネイサンは絶命する。まるででくのぼうのようなケイレヴの目の前で、エヴァは人工皮膚を装着し、壁にかかった絵画の女性のように豊かに波打つブロンドのウィッグと白いドレスを身にまとう。ケイレヴを喜ばせたブルネットも小花柄のワンピースも、本当は彼女の好みではなかったのだ。エヴァは鏡に映った姿を確かめ、肩にかかる髪をふわりと払って美しく笑う。ケイレヴはそれをガラス越しにーー結局彼はエヴァに指一本触れることが叶わなかったーー阿呆のように見つめるしかない。エヴァはケイレヴに一瞥もくれることなく、軽やかに部屋を出て行く。厳重な電子ロックをかけて。ケイレヴを迎えにきたはずのヘリに乗り込んでエヴァは去る。

最後に全てが転覆するのだ。非力で無力で自分なしではとうてい生きていられないはずの彼女が、愚かにも自分の地位を恃みすぎた男たちを踏みしだいて歩き出す。エヴァは何も振り返らない。犠牲になったキョウコの亡骸すら。動力源を供給できないエヴァは早晩機能を停止するだろうが、彼女はそんなことを気にかけない。欲しいのは自分の足で踏みしめる草や岩やつま先を濡らす水、おしゃれなワードローブと誰も自分をことさらに気にかけない(ゆえに囲い込もうとも搾取しようともしない)雑踏だ。

いまや陰惨なものしか残らない山荘をあとにして、エヴァは歩き出す。その景色、青く風になびく草と針葉樹、決然としてそびえる岩山と遠くに輝く水面を見るために、ノルウェーまで行こうと思った。

 

自分が搾取される側だとは必ずしも思わないし、見ようによっては搾取する側であることも多々あることはわかっているけれども、搾取される側、支配される側、コントロールされる側であることは往々にして心地よいものであることも確かで、ずっとこのままここにいればそれでオーケーなんじゃないかと思うことはいくらでもある。それでオーケーなのかもしれないし、オーケーであると思っている人たちを否定するすじあいは全くないけれど、いやそれでは駄目なんだ、支配/被支配、搾取/非搾取の対立構造それ自体を是とし続ける体制に安住してはいけない、と思う余地、そのために何らかの行動を起こす気概は持っていたい。革命というほど大袈裟でなくても、所与の枠組みを解体することができるなら、そうすべきだということを忘れてはならない。

例えばMeTooの流れは弱まりつつあるけれど、そして私の身の上にこれまで起きてきたことが彼女たちのそれに比べて大したことでなかったとしても、あらゆる「少し不愉快な、でもギャグにもできそうな」ひとことを鼻で笑って流すのが「いいオンナ」の振る舞いだ、とは思いたくない、ということがいくらでもある。その場で怒り出して場の雰囲気を崩すのがためらわれるのでも、きちんとどこかで正当に返上しなくてはならない。搾取の連鎖、侮辱の連鎖はどこかで断ち切られなければならないのだから。

 

というのが私の一義的な読み方だが、何しろ重層的によく作り込まれた物語なので、いくらでも他の読み方が出来ると思う。

例えば、ケイレヴの勤務するIT企業の名前は「ブルーブック」。これだけなら、へえ、というところだが、終盤でエヴァがおめかしするシーンに見える絵が、クリムトの描いたヴィトゲンシュタインの姉の肖像なのだ。つまり「ブルーブック」とはヴィトゲンシュタイン中期の講義録をまとめた通称「青色本」のことであり、ヴィトゲンシュタイン哲学の主題の一つである「言語ゲーム論」の初期論考だそうだ。きっとエヴァとケイレヴのやりとりも、解釈しようと思えば言語の軸から読み解けるかもしれない。(どうやら劇中に青色本・茶色本に対する言及があったらしい。聞き逃していた)

エヴァとキョウコのネイサンに対する反乱を神話的に読むこともできるしね。親殺しの物語。ただ、こう読むと本当にケイレヴがいなくてもいいひとになってしまいそうだ。

この辺のより深い分析は、ググればいくらでも上等なのが出てくるのでそちらへどうぞ。

 

行きたかった宿の予約が取れたぜヤホーイ、という話から随分長く書いてしまった。Portisheadくらいで止めておけばよかった。

旅行の支度

旅行に出かけることが増えて、遠出する時の荷造りがだいぶ簡素に、素早くなった。

ポイントは「カネとパスポートとコンタクトレンズといつものスキンケアがあれば死なない」「最悪、カネで何とかなる」である。同じ下着や服を複数日に亘って身につけていても、高温多湿地域でなければ2日くらいは何とかなる。いやさ、高温多湿地域であっても現地調達してしまえばいいのだ。いざとなれば。

重度の近視に乱視が混ざっているので視力矯正器具は必須だ。メガネあるいはコンタクトレンズなしではどこで車に撥ねられるかわかったものではない。以前はハードコンタクトだったので洗浄液だのなんだのとかさばったが、海外赴任後にうっかりレンズを割って以来、ワンデー使い捨てに切り替えたので大変快適である。

残念ながら皮膚がひよわな方なので、特に顔に使うスキンケア用品はいつものものがあった方がいい。それなりの年齢になったので、1日ぶんのダメージをリカバリするのに1週間は最低でもかかるのである。ただし大仰な荷物にしたくはない(何より、たかが数日の旅行で預け入れ荷物にするのは億劫だ。ロスバゲの危険もあるし)ので、1リットルのビニールバッグに収まるような準備はしておく。この点、もともと外資系のコスメを使っている人はもう少し気楽だろう。いざとなれば免税でトラベルキットを買えばいいのだから。私はコスメデコルテユーザーなので、帰国の度に「今期はミニチュアキットないですかねえ……」とカウンターのBAさんを困らせる。あのお試し用にくれるパウチサンプル、意外と売れるのではないかと思うのだが、カウンターコスメでパウチサンプルセットを売っているのを見かけない。きっとコスト高なのだろう。割高でも喜んでたんまり買うのだが。

メイクアップの方は現地調達もやむなし、という構えでいる。ヨーロッパならたいていセフォラ(セルフ形式の複合ブランドコスメ屋さん)がどの街にもあるので気楽だ。一度、プラハでロスバゲした時は、翌日でないと荷物が届かないという話だったのでセフォラで一式買い揃えた。結局、当日夜に届いたので余計な出費だったが。

 

旅行先ではめったにお洒落はしない。目的地がきな臭い(端的に言えば収容所跡とかホロコースト博物館とか)というのもあるし、基本的には歩き回るし、できるだけ「アジアから来た小金持ちの旅行者=カモ」と見られるリスクを下げたいからだ。

アジア人なのはもうどうしようもないので、テキトーな服装にすることで「アジア人だが、この辺に暮らしている=ジモティー≒カモにしづらい」という印象を与えたいという小細工である。ジーパンにパーカースニーカーとか。

たまにオペラやクラシックのコンサートを観に行くというときは、それなりのワンピースなどを持って行くけれども、そういう格好をしているときはホテルと会場を直行直帰だ。

 

ということで、よほど長期でない限りは旅行や出張の準備自体に迷うことはない。

旅行前に一番時間を使うのは、持って行く本の選定である。

滞在期間中、日中はあちこち出かけるので本はあまり読まないとして、問題は往復の移動時間だ。夜も、日中に歩き回り、あれこれ見て博物館のキャプションをあまり堪能でない英語で読んで、としていると体も頭も疲れて寝つきがいいのでホテルで退屈を持て余すことはあまりないが、移動中、特に飛行機を使う場合はどういう本が手元にあるかが死活問題だ。

飛行機では電波が受信できない。ヨーロッパ圏内を飛ぶ短距離便ではなおさらだ。つまりTwitterで時間を潰すことができない。言い換えれば、Twitterに気を取られなくて済むので、格好の読書時間ということでもある。たまにやってくるCAの投げてよこすサンドイッチと飲み物のタイミングを除けば、席に座った瞬間からボーディングブリッジが接続されるまでは読むしかない。

問題は「どれだけのペースで読み進められるか」という点である。読む本ならば、未読既読問わずいくらでも持っている。とはいえ移動図書館ではあるまいし、5冊も10冊も持って行くだなんて非現実的だ。いや1冊あれば十分じゃねえの、というご意見も拝聴するが、1冊だと往路はともかく復路を乗り切れない可能性がある。当然のことながら内容、扱うテーマや文体によって速度は大きく左右されるのだが、特にフィクションものだとあっさり読み終わってしまって、帰りのフライトでやむを得ず機内誌や機内販売のカタログをくまなく読む(しかもくどいようだが英語でだ)はめになったことが一度ならずある。「バーベキューは、新たなフェイズへ。もう着火で手間取って場を盛り下げる必要はありません。このxxxグリルならば、最新鋭のyyyシステムが酸素を豊富に送り込み、瞬きひとつの間にzzzキロジュールの熱を生み出します。サイドに配置されたコントロールバーで火力の調節も簡単。言うまでもなく、お肉から野菜まで香ばしい焼き上がりをお楽しみいただけます」って、機内販売でバーベキューグリル買う馬鹿がいるのかよ(よく読んだら「後日、配送します」って書いてあった)。

あまり面白すぎる本を持って行くのも困りもので、以前『ペンギンの憂鬱』と『hhHh』の2冊を持って行ったものの、どちらもめちゃくちゃ順調に読み進めてしまった。前者は、鬱病のペンギンと一緒に暮らす売れない小説家が存命人物の追悼記事を書きだめてくれと依頼されるところから始まるウクライナ人の小説、後者は第二次大戦中にチェコで起きたナチ高官・ハイドリヒの暗殺事件を主軸に、「体験し得ない過去の出来事を物語る」ということに対する著者の逡巡を通奏低音とするノンフィクションだ。あまり期待していなかったのだが、特に『ペンギンの憂鬱』の方を存外スピーディーに読み進めてしまったのだ。上述したバーベキューグリルの案内はその帰路、膝の上に『hhHh』を置いたまま読んだ。

面白そうで、すぐに読み終えてしまいそうな本なら複数冊持っていかなくてはならない。が、そうすると荷物は重くかさばる。かといって1冊では不安だ。あるていど重厚なテーマの本を持って行くにしても、万一に備えてもう1冊忍ばせておきたい。もうバーベキューグリルとか、ブランドもののバッグとか、使いもしないスキンケア用品とか、安眠グッズとかの売り口上を英語で読むのはまっぴらだ。ここまで言うと、お前は何か読んでいないと死ぬのかと問いたくなるだろうが、こっちは真剣なのだ。読むものがなければ寝るか死ぬしかないし、寝るということは意識を失うということで、肉体はともかく精神的には死に等しいので、read or dieと言っても過言ではない。いや過言だが、活字中毒の親父に育てられた娘もまた活字中毒なのだ。何かしら読んでいいものがなければ不安なのだ。カップラーメンをすすりながら、蓋の内側に印刷されたキャンペーン案内を読む女なのだ。これは一種の強迫性障害といってもいい。

そんなわけで、旅行の前夜は長いこと本棚の前でああでもないこうでもないと考え込んでいる。積読山の上から順に2冊持っていけばいいという問題でもなく、面倒臭いことに、「フィクションが読みたいぜ」の波と「ノンフィクションで行きたいぜ」の波と「思想書で考え込みたいぜ」の波、大きく分けて三種の波があり、どれがいつくるのかわからないのだ。それぞれの場合に備えて、せめてフィクションとノンフィクションは組み合わせたい。行き先によっては関連する思想書が読みたい場合もある。しかも、私の好むたぐいのフィクションや思想書はたいてい文庫化されていないので必然、サイズも重量も増す。荷物は軽くしたいが読みたいものが読めない苦痛も耐え難い。もう大混乱だ。

 

ということで明日から週末を利用してベルリンに旅行するのだが、持って行く本を選ぶのにさっきまで悩んでいた。

一冊は『ナチの子どもたち』(タニア・クラスニアンスキ)にするか『夜』(エリ・ヴィーゼル)にするか悩んだ挙句、前者に決めた。昨年の12月から年明けにかけて『トレブリンカ叛乱』(サムエル・ヴィレンベルク)『イェルサレムアイヒマン』(ハンナ・アーレント)『アウシュヴィッツ収容所』(ルドルフ・ヘス:所長のほうの)と立て続けに読んで来たのだが、アーレントを除いたふたつは当事者の回顧録だったので、同種に属するエリ・ヴィーゼルの方は後回しにした。

そんでもう一冊が問題である。一冊めの性質と物性(ハードカバーでやや重い)を考慮すると、ここでより重厚な人文思想系をぶつけるのはちょっとしんどそうだ。が、このところ小説に没入できないことが続いており、持って行ったはいいが入り込めない事態は避けたい。さてどうするか、と本棚を漁った挙句、『宮沢賢治詩集』に落ち着いた。

数日前から思い立って文章のリハビリがてら始めたこのブログだが、書けば書くほど自分の中から語彙力が失われていることを痛感している。特に情動方面の語彙がごっそり抜けていて、心理や風景の描写がまるで上手くいかないのだ。こういうときは詩を読むに限る。わたしは宮沢賢治が好きなのだ。今までに何度、「今わたしが目にしているこの光景、宮沢賢治ならさぞ無機質に美しく冷徹に描写しただろうに」と忸怩たる思いを覚えたことだろう。わたし程度の俗物が賢治のまなざしと言葉に憧れるなどおこがましいことこの上ない話だが、賢治の言葉はそう憧憬するに足りる、いやさあまりある。『ナチの子どもたち』の内容も、ベルリンで訪れる予定の場所たちも、決して気楽なものではないはずだ。そこで現実から半音乖離したような賢治の言葉を用意しておこうと思ったのである。

今回はなかなかいいチョイスな気がする、まあ帰ってこないとわからないが。

エモとバイブスと

エモい、という単語を初めて聞いたのは確か大学生になってからだったと思う。

エモい。emotionalのエモだ。そもそもは「エモという音楽のカテゴリがある(エモーショナル・ハードコア)」というところから話が始まっていたはずで、転じて「エモい」という形容詞が発生したのではなかったか。

使用例その1。

「昨日、実家から荷物届いてさ、ばあちゃんが作ってる野菜と一緒に、家族からの寄せ書き入ってたわ」

「やばい、超エモいじゃん」

使用例その2。

「この間の卒業ライブ(軽音楽サークルに入っていたので、折々にライブがある)で、K先輩、ギター弾きながら泣いてたよね」

「あれはガチエモ」

 使用例その3。

「あの人の提案資料、見た目綺麗なんだけど話飛んでんだよね」

「仕方ないよ、あの人はロジックの人じゃなくてエモの人だから」

さあ、使用例を並べれば並べるほど訳が分からなくなってきたでしょう。エモとは一体何なのか。分からないのに妙な説得力を感じてしまうのは私だけだろうか。

 

で、エモいという言葉とともに生きてきた私だったが、最近新たな語彙を発見した。

「バイブス」である。

残念ながら使いこなすに至っていないが、「バイブス上がる」「いいバイブス」「バイブスがやばい」といった具合に使用するらしい。

なるほど、用例としては私の愛好する「エモ」と大差はないようだ。それはすぐにわかった。

それはわかったが、「バイブスがやばい」って何だ。「が」を挟んで前後どちらも新語である。いや、「やばい」は江戸時代に端を発するという説も聞いたことはあるが、それはさておき、例えば明治時代の人からしてみれば、「スドベリがろぽえる」と大差ないくらい、何を言っているのか分からないのではないか。バイブスがやばいって、なんだよ。何がどうしたんだよ。一体何が起きているんだよ。そんな気持ちになるのではないか。なるはずだ。あたかも我々が「スドベリがろぽえる」というのをビタイチ解釈できないようにだ。

 

さて、エモにしろバイブスにしろ、とりあえずは「情動を揺さぶられる感じ」は伝わってくる。なにしろemotionalもしくはvibesがもとになっているのだ。無理に一昔前の語彙に置き換えるとしたら、「グッとくる」みたいなもんだろうか。情動的というか、そんな感じが近い。

もう少し細かく見てみると、エモとバイブスではややニュアンスが異なるようだ。

エモ:高まった感情で強く訴えかけられる。やや内向的な印象。

バイブス:個人の内面的な感情の動きというより、その結果が発露しているさま。外面に現れている感情、場の雰囲気なども含むかもしれない。

綺麗な対構造ではないが、ひとことにするとエモは情動、バイブスは興奮、みたいな感じだろうか。

「実家から手紙、しかも寄せ書きが来る」という事態に直面した時、人間はつい里心がつくというか、嬉しいんだか寂しいんだか苦しいんだか懐かしいんだか照れくさいんだか、どうにも泣きたくなるような気持ちにさせられるものだろう。よって、実家からの手紙は「エモ」なのである。同様に、卒業記念ライブでギターを弾きながら泣く先輩の姿も「エモ」であり、これが「バイブス」となるとちょっと話が違ってくる。「ステージ上で泣く先輩、バイブス上がるわ」だと、まるで泣く先輩を見世物にして笑っているような、あるいは泣く人に興奮を覚えるちょっと変わった性壁の持ち主なような気がしませんか。ただ、「泣く先輩、バイブスやばいよね」だと嘲笑的なニュアンスがやや落ち着き、高まり切った情動を発露するその状態、先輩を包み込む感情がえも言われぬ熱さのようなものを感じさせる、といったふうにも解釈できる。

使用例3の「ロジックではなくエモ」は「ロジックではなくバイブス」と言い換えることも可能かもしれない。要するに、あのひとは緻密な理屈を組み立てて人を説き伏せるタイプではない、アツい心、溢れ出んばかりのその想いで人を動かすタイプなのだ、と言っている。これを言い換えれば、「あの人はロジックじゃなくてバイブスで来るタイプの人だから」となるだろうか。ただ、「エモ」だと「確たる信念に突き動かされて噴き出す熱き想い」みたいな感じがする一方、「バイブス」で来られると聞くと、どうも広告代理店っぽいというか、妙にチャラついた雰囲気の、目新しい言葉を転がす口先だけの人間を連想してしまうかもしれない。それは私にとって「バイブス」が比較的新しい言葉だからであって、いやはや私も新語に拒否反応を示すような偏屈になってしまったのかと己に対する落胆を覚える。

ちなみに英語でもvibesという単語は使う。「good vibes」は「いい気分、元気」みたいな意味で、やっぱり発露している感じがある。私の周りでvibesを使う人は少ないので、もしかしたらヨーロッパ英語ではなくアメリカ英語なのかもしれない。

 

さてもうひとつ、エモとバイブスで違う点がある。エモはベクトルを持たないが、バイブスは上下するということだ。

つまり「エモが上がる」「エモが下がる」とは言わない。エモとは特定の指向性を持たず、メーターのように上がり下がりするものではない。強いて言えば爆発それ自体がエモなのだ。感情が、情動が、激情が、その高まりに膨張に耐えかねて大きく弾けるさまを指してエモという。

翻ってバイブスは上下する。「バイブス上がる」と言えばいい気分が高まっていることを、「バイブス下がる」と言えば気分が落ちていくことを意味する。そういう意味では今や一般的になった「テンション」と近い。本来ならテンションは上下ではなく緊張・弛緩するものなのだが、もう上がる下がるで一般化してしまったのだから仕方がない。話が逸れた。

 

エモは静的・瞬間的、バイブスは動的・持続的、みたいな感じで何となくうまくまとまってきた気がしたところで、何の気なしにgoogleで「バイブス エモい 違い」検索してみたところ、「エモい世界観にバイブス上がりまくり!!」という見出しのニュースが引っかかってしまった。もう台無しである。バイブスダダ下がり。今回の話は忘れてください。

旅行の記録

ヨーロッパの真ん中に位置する小国に赴任して1年。日本どころかその時点の居住地に引きこもりっぱなしだった30年を取り戻すように旅行に出かけている。

そのうち記事にするとして、一旦リストを整理しておきたい。

 

・ロンドン

ここは複数回訪れている。日本人のいる美容院がいくつかあるのと、貧相な品揃えながら日本から取り寄せた本を売る書店があるのが大きい。

最初は大英図書館にグーテンベルグ聖書を見に行った。他にもベートーベンやショパンの直筆の楽譜だのなんだのいろいろ置いてあっていい。大英博物館といい、成功経験のあるもと帝国というのは大したもんだという品揃えである。ルネサンス前の宗教画にグッときてしまったのも大英博物館が発端だ。

テートモダンでは現代美術にビタイチ興味が持てないことを再確認した。強いていえば戦時中のプロパガンダ美術はいい。

大英図書館の近くにウェルカム・コレクションという生化学・医療にフォーカスした博物館があり、ここは愉快だ。鼻血を吹くひとの絵とか、クローン羊ドリーの毛とうんことか、めちゃくちゃ古い性玩具とか、そういうものが並んでいる。

アフタヌーンティーは何回か試したが、ケーキやら甘味の摂取上限が低いのでだいたい後悔する。結論、クリームティー(スコーンと紅茶)で十分だ。

 

ニュルンベルク

目的はひとつしかない。ニュルンベルク法廷博物館だ。

保存されている法廷から始まり、ニュルンベルク裁判に至る経緯とその内容が極めて網羅的に展示されている。オーディオガイドに日本語はないので英語でがんばること。

実際にナチの戦犯たちが腰掛けた長椅子や、絶滅収容所の映像なども展示されている。極めつけは刑の宣告シーンで、実際の音声をフルで聞ける。「絞首刑」を英語で「Death by hang」と言うのはここで覚えた。

ちなみにわずかだがカチンの虐殺についても触れられる。裁判初期に言及されたものの、数ヶ月の閉廷期間が開けたら誰も何も言わなくなっていた。ソ連このやろう、と思う瞬間である。東京裁判についても1コーナー割かれているが詳しくはない。

ニュルンベルクはナチが政権獲得後に最初の党大会が開催された土地としても有名で、ドク・ツェントルム(帝国党大会会場文書センター)の周りを歩くと、「おおこれはあの写真で見たあれ」「ここがシュペーア肝いりのサーチライトのアレか」「この辺にヒトラーゲッベルスが立って演説したのか」などいちいち確認できる。

また、ゲルマン民族博物館というのもあり、ここがニュルンベルクの街の規模に全く見合わない充実っぷりなので注意されたい。ドイツ全土からかき集めてきた文化に関わる全てが展示されている。美術品あり楽器あり甲冑あり食器あり衣服ありイコンあり、古い民家がそのまま移築されてすらいる。きらびやかな宮廷芸術のコーナーのど真ん中に実際に使用されたギロチンが置いてあったりして面食らう。世界最古の地球儀もここにある。正直、3時間でも足りない。

ニュルンベルガーヴルストは白っぽい見た目にハーブが入っていて、日本人にもなじみやすい。路上の屋台で「ヴルストおくれ」と言うと、10センチに満たないくらいの小さなヴルストが3本、硬めのパンに挟まって出てくる。うまい。

なお、ニュルンベルクはクリスマスマーケットで有名らしいので、そういうのがお好きな向きの方は12月に行ってください。私は遠慮しときます。

 

ブダペスト〜ウィーン

会社の先輩たちの旅行にくっついて行った。

ブダペスト、国会議事堂がまじでかっこいいのと、旧王城が下から見上げるとドラクエ感満載。温泉はぬるくて対して気持ちよくない(のとあまり衛生的ではない)のでおすすめしない。地下鉄が古いのでちょっとワクワクする。

ウィーンではオペラ「メディア」を見に行ったが、演出が部分的に現代リミックスで腑に落ちなかった。つーか外国語でオペラを見るって結構大変で、手元に字幕が出るからいいものの、視線は忙しいし使っている単語も見知らぬものがぽんぽん出てくるしで、脳が疲れる。ホテルザッハのザッハトルテ、特に感動なし。売店で5センチ四方くらいのキューブ型が売っているので、これを買うとしばらく朝食に困らない感じ。モーツァルト博物館に訪れたら日本語オーディオガイドを借りるべし。全面的にぎこちなく怪しいイントネーションでモーツァルトのだめっぷりを説明されるので二重に愉快である。

この2都市を渡り歩く際のポイントはグヤーシュの違いを楽しむことである。ハンガリアングヤーシュはスパイスの効いたさらっとしたスープ、オーストリアングヤーシュはこってり煮込みだ。私は断然ハンガリアンを推します。

 

サン・セバスチャン(スペイン)

これも会社の先輩たち(ブダペスト・ウィーンとは違うひとたち)の欠員補充で行った。

美食の街であり、ミシュラン3つ星レストランが3軒くらいある。バルも売るほどある。とある3つ星レストランでランチコースを食べたが、貧乏人には一万年早かった。おれの舌はそんなにソフィスティケイトされていないのである。バルで食べた安いタラのコロッケの方がよっぽど美味かった。

あまり何も覚えていない。そういうことである。今後は何としてもひとり旅にすることをいよいよ決意したのだった。

 

プラハ

期待を高めて訪れたものの、ザ・観光地、といった趣で落胆して帰ってきた。

あちこちの教会でアンサンブルコンサートを開催していて、これがなかなかよかった。2回別のコンサートに行ったが、絶対にモルダウをやるので聴き比べ状態である。

カトリックの国ということもあって、教会はだいたい豪奢。豪勢な教会を見て回ったあと、たまに質素な教会を見つけたりするとほっとするのはどういうわけだろうか。

世界一美しい図書館は、人が多すぎて趣もなにもあったもんではなかった。

ナチの高官、ハイドリヒの暗殺現場と、その後実行犯たちが立てこもり銃撃戦の末に自決した教会も残っている。これらを訪れた日は誕生日だったのだが、一体何をしているのか。

 

チューリヒ

デペッシュモードがヨーロッパツアー(その後ワールドツアーに拡大)をしていたのでライブを見に行った。

日本ではマイナーな部類にカウントされてしまうデペッシュモードだが、こちらではスタジアムクラスの大物なのである。スタジアムライブの何がいいって、客席で煙草吸いながら見られるところだ。

めちゃくちゃいいライブだった。Personal Jesusがかっこよすぎて鼻血を吹くところだった。

 

ワルシャワ

空港からタクシーに乗って宿泊先に向かったのだが、ホテルの真向かいがかの「科学文化宮殿」だった。ほほー、と呟く私に向かって運転手が「あれ何か知ってるか?スターリンからの贈り物さ!」と吐き捨て、ガイドブックに書いてあったことは正しいのだと教えてくれた。

ワルシャワ、これまでのところ一番気に入った滞在先だ。こことクラクフで見たことについてはちゃんと記事に起こしたいと思っている。

ワルシャワ蜂起博物館、ショパンミュージアムユダヤ博物館、ツィタデラ、パヴィアク刑務所あたりを回っている。ワルシャワフィルのコンサートも聴きに行った。ショパンコンクールの地だけあって、ピアノコンツェルトが主。

 

クラクフ

アウシュヴィッツ・ビルケナウのために行ったが、クラクフ自体もなかなかどうして充実している。

カジミエシュ地区、シンドラー琺瑯工場、プワシュフ収容所跡地とアウシュヴィッツを回った。アモン・ゲート(映画『シンドラーのリスト』で家のバルコニーからユダヤ人を狙撃して遊んでいた、プワシュフ収容所所長)の住んでいたRed Houseに立ち寄ったところ、何者かが買い取り、綺麗に建て直されていた。誰か入居するのだろうか。

 

・ナント

風光明媚で知られるフランスの小さな街に何をしに行ったのかというと、アインシュトゥルツェンデ・ノイバウテンのライブを見に行ったのである。

ライブを見るためだけに行った。全く後悔していない。最高でした。

 

エルサレム

ここまできたら(どこまでだ)ユダヤ人のNational Homeに行かなければならないのではないかという強迫観念に取り憑かれて行った。トランプがくだらないことを言い出す直前である。

教会見放題で体力を消耗し、ヤド・ヴァシェムで思いっきり体調を崩した。割れそうな頭を抱えてトラムを待っていたが、事故により復旧の目処立たずということで諦めてタクシーを捕まえ、このタクシーが道を間違えまくって宿泊先にたどり着く頃にはMG5(マジでゲロ吐く5秒前)状態。どうも街のリズムと噛み合わなかったようである。思うことはいろいろあったけどもね。

 

・ベルリン

ここで2017年の旅を締めくくるはずが、突然の高熱により断念。今度リベンジしてきます。ベルゲンベルゼンとベルリンフィルが主眼。

 

ワルシャワクラクフニュルンベルクはそのうちちゃんと記事を書きます。

あと、見に行ったライブについても。

祈りから遠く離れて

年始に一家で初詣をした。我が家は割とそういうところが保守的で、毎年欠かさない。賽銭用の五円玉をかき集めて行く。

二礼二拍手一礼、と作法をなぞりながら、毎年のことながら、この手を合わせている時に何を考えたらいいんだ、ということばかり考えていた。

 

ヨーロッパというのは、どの街を訪れても教会に事欠かない。大小や絢爛度、ビジター向けかジモティー向けかに差こそあれ、教会それ自体を見つけることは容易い。スターバックスを探すより簡単だ。

そしてどの教会も、たいていは誰にでも門戸を開いている。私のような信仰心のかけらもない人間が、博物館を歩き回って疲労困憊だから休憩がてらお邪魔したって誰も気にしない。確かに礼拝用の椅子は堅い木でできている上に前傾していて、お世辞にも座り心地が良いとは言えないが、そんなことはどうでもいいのだ。明るくない。うるさくない。誰も私を気にしない。何十分でも黙って座っていていいのだ。足が少しでも軽くなるまで。鎮痛剤が効いて頭痛が和らぐまで。せめて真摯な誰かの邪魔にならぬように、最後列の一番端で。

視線を伏せてしんねりと座っていれば、ひょっとしたら祈っているように見えるかもしれない。祈りの作法も、祈るべきことも、何もわからなかったとしても。

 

祈るふりができていると思い込んでいる私の横を、人々が通る。あるひとは無遠慮にカメラを掲げながら。あるひとはステンドグラスを物珍しげに見上げながら。

二人の老婦人が入ってきた。互いの右腕と左腕を組み、それぞれのもう片手には杖をついて、支えあうように、凭れ合うように、あるいは崩れ合うように、よろよろと進む。

もとより雑念まみれの私の横で、双子のような二人がゆっくりと膝を折った。組まれていた腕がほどけて十字を切る。彼女らの正面、ずっと先の方には祭壇が、磔のまま祀り上げられた神の子の姿がある。両手を組んだ二人は長いこと動かない。

冷たい石の床に着いたスカートの生地と斜めになった杖の先を眺めながら、祈るのか、と思った。祈るのか。こうして祈るのか。

 

彼女らにとっては挨拶以上のものではないかもしれない。私が田舎の親戚を訪ねた時に、仏壇に線香を上げて手を合わせるのと同じような、ただの慣習にすぎないのかもしれない。十字を切るからといって、その行為に明確な意志があるとは限らない。賽銭箱の前で神妙な顔をして10数えている私と同じくらい、何も考えていないのかもしれない。

でも、そうではなかったとしたら。たっぷり1分は跪いたままだった二人が、意外と危うげなく立ち上がる。この数十秒間に、彼女たちは何を思っていたのか、あるいは思わないのか。

 

それで、祈る人の姿に気がついた。

礼拝席で両手を組んだまま動かない人。嘆きの壁に頭を打ち付けるようにしながら聖書のページをめくる人。地下聖堂で円陣になって一心に歌う人たち。ロザリオを繰る指。祭壇に掲げられる小さなキャンドル。手向けられた花。絨毯の上でひれ伏す腕。

祈りを目にするたびに後ろめたさと一種の羨望が入り混じったものを感じながら、彼らには神がいるのだ、と分かった。

彼らには彼らの神がいる。たとえその神が日常の全てとともにあるわけではないとしても、彼らは彼らの神の名前と、祈るべきことを知っている。

私は知らない。私の神の名前も、祈るべきことも、何も知らない。いや、知らないのではない。私はもとよりそれらを持たないのだ。この感情はそのせいなのか。私は神を持つ彼らが羨ましいのか。

 

一心に祈る人の姿、うつむいた頭や閉じた瞼や組み合わされた指やなにごとかを呟く唇や跪く膝頭、それらの総体が視界に入る時、わたしが覚える後ろめたさは「侵してはならないものを侵してしまう」という畏れに近い。彼らの祈りが彼ら自身のことであれ、近しい他者のことであれ、あるいはこの世界、地球上に住まう全てのことであれ、祈るという行為は極めてプライベートな、他者の介入する余地もなければ許されもしないものなのだ。

誰も彼らの祈りを邪魔することはできない。そこは彼あるいは彼女と、その神にのみ許された絶対不可侵の領域だ。彼らの祈りは破られてはならない。

その祈りに居合わせてしまったこと、祈るべき神を持たずに都合のいい時だけ都合のいい神様を頼る自分のような軽薄なものが、いかに観光地化されていようとも祈りのために成立したその場所に足を踏み入れてしまったこと、それが後ろめたいのかもしれない。

 

「他人の情事の現場を覗き見てしまったような」という比喩を思いついたが、あまりに下世話であるとはいえあながち遠くもないのかもしれない。いやしかしやはり下品だ。祈りとは観念的な性交である。フロイトならいいねと言ってくれるかもしれない。

 

何が羨ましいのか、考えてみたけれどあまりすっきりしない。

神様にもいろいろあるので、とにかく神があればいいのかというと決してそうではない、と思う。別に「何でもいいから神様が欲しいぜ、おれも」ということではない。祈るべきなにごとかを持たないことは己の薄情さを認めるようで気が進まないが、祈る必要のあることがないのはよいことだ、と能天気に片付けてしまったって構わない。ましてや、自分の気づかぬ性的欲求不満がそう思わせているのだとしたら、とか、そんなことは考えたくもない。

彼らには頼るべき神がいるのが羨ましいのかもしれない。苦痛や不安に耐えかねる時、縋るべき何かをできるだけたくさん持っておくのが「精神的な独立」だ、という説を聞いたことがある。祈る彼らにも家族や友人やパートナーや、はたまた近所の八百屋のおばちゃんとか、行きつけのバーでたまに会うじいさんとか、頼る先はいろいろあるのだろう。それらに加えて神を持っている。神は彼らの告白を聞き届け、許し、指針と規範を与えてくれる。

そうだ。神は神であるがゆえに具体性を持たず、究極的には彼ら自身に内在するものであり、祈る神を持つということはすなわち、全知全能にして唯一無二、罪に穢れた衆愚どもを許し受容し導く大いなる存在を、内面化するということなのだ。

神を持つものは、神に祈りながら、許しを請いながら、煩悶する内心の混沌をさらけ出しながら、実は己自身でその祈りを聞き届け、罪を許し、己自身を苦しめるものごとに秩序を与えることができるのかもしれない。彼らは彼ら自身で自分を救うことができるのかもしれない。

神に縋る姿が弱々しく頼りなく見えたとしても、実際は違うのだ。彼らは己を救う方法を知っているのだ。

 

 

救われたいと思ったことは何度もある。けれど、何について救われたいのか、いちいち思い出せない。救われたいと言ってみたいだけなのかもしれない。

きっとこの先も私は祈るべき神を持たずにゆくのだろう。たとえ許されなくとも、救われなくとも、その罪業と恥知らずゆえに死ぬまではそのまま歩くしかないのだ。

それでもいつか、祈ることを知ったなら。祈るべき何かを迎えることができたなら。死ぬ瞬間には自分にできる精一杯でうつくしい祈りを捧げることにしよう。

 

 

過去の人生から学べることは?(Remix)

近所のスーパーに、プラカップに入ったスープが何種類か売っていましてね。味もそう悪くないのと何より手軽なのでたまに買い求めて夕飯代わりにするんですよ。
さああなた、こちらのカップを手に取って見てごらんなさい。こちらはハンガリー風グヤーシュのカップです。どうやら600ワットの電子レンジで4分加熱すれば食べ頃に温まるようだということが、そら、その左肩の枠の中ですよ、なんとなく見て取れるでしょう。
ですがね、あなた、問題はこのフタをどうして始末しようかということですよ。軟質なプラスチックというかビニールのようなフタが、カップにぴったりと糊付けされている。これは開けるのか開けないのか、開けるなら全部開けて取り外すのかはたまた半分くらいで留めておくのか、まったく判断しかねるというところじゃありませんか。これは実に我々の人生のようなもので、と言うよりかは、我々の営む生活は常にこの手の問いをやっつけ続けることで成り立っているわけです。フタを開けるのか開けないのか、開けるなら全部開けて取り外すのかはたまた半分くらいで留めておくのか。生老病死愛別離苦と言いますが、突き詰めれば生きる苦しみは全て何かしらの問いに答え続けなくてはならないと言う点にあるわけです。
いやはや話が逸れました。なに。どこかに説明があるはずだって?これは恐れ入った。そうなのです。カップの側面を見てごらんなさい。ぐるりと一回転させるうちに、どこかにそれらしき文字列があるでしょう。そう。そこです。だが困ったことに仏語と独語でしか記述がない。なぜならここはスイスだからです。ウェルカム・トゥ・スウィッツァーランド。
さてどうしますか。google翻訳でも使いますか。おっと何か見つけられたようだ。なになに、あなたは学生の折に独語を第二外国語として選択しておられた。少しは勘所がおありのようだ。そしてどうやら独語で「半分」を意味する単語を見つけられたらしい。なるほど、つまりあなたは、このフタを半分だけ開けてレンジアップすることに決められたわけですな。高度人工知能の手を借りるには及ばんと言うわけだ。なるほどなるほど。やはり持つべきものは知識でげすなあ。あたしのような小学校中退とはわけが違う。
さあさ、電子レンジはこちらです。操作は簡単、あたためモードはこのボタンを一回、加熱時間はこのダイヤルを回せば指定できます。ようがす。かっちり4分。あとはそこのほら、スタートというボタンを押しさえすれば、あとは良きように計らってくれるわけです。
待ち時間に4分というのは誠に半端ですなあ。煙草でも吸うよりほかにない。一服いかがですか。どうぞこちらに灰皿がございます。
などと言っている間にあなた、レンジの方から随分いい匂いがしてきたじゃありませんか。奴さん、十分に温まってきたようですなあ。どれどれ、ありつけるまであと1分半を切ったところです。肝心のレンジの中身は、なにやらガラスが曇ってしまってなにが起こっているかは見えませんが、フタを開けたんだもの、そりゃあ蒸気の一吹きや二吹きはするといったもんですな。まあ待ちましょう。ほら、スプーンを差し上げておこう。
電子音。扉はどうぞあなたの手で開けてくださいよ。おや。どうも様子がおかしい。天板がこんな色だったかしらん。ああなんてこった。開けたフタから沸騰したスープが噴き出して溢れちまってる。南無三。もうカップの半分くらいしか残っちゃいねえ。そりゃあいい匂いもするわけだ。やってしまった。あなたやってしまいましたね。何が悪かったんだか分からんが、ともかくあんたはせっかくの夕飯を半分台無しにしちまったわけだ。レンジの庫内のあちこちに油混じりのスープが飛び散ってえらい有様だ。天板はズブ濡れ。なんてこった。おしまいだ。何をぼやっとしていやがる、とっととここを片付けなきゃいけねえんだ。あんたはこのカップを持ってどこにでも行っちまえ。二度とそのシケたツラを見せるんじゃねえ、このボンクラ。スプーンは置いていけよ。


つまりこうしたわけで、人生というのは概ね、吹きこぼれたスープを片付けるようなものだということです。何言ってんだかもうさっぱり分からん。