旅行の記録

ヨーロッパの真ん中に位置する小国に赴任して1年。日本どころかその時点の居住地に引きこもりっぱなしだった30年を取り戻すように旅行に出かけている。

そのうち記事にするとして、一旦リストを整理しておきたい。

 

・ロンドン

ここは複数回訪れている。日本人のいる美容院がいくつかあるのと、貧相な品揃えながら日本から取り寄せた本を売る書店があるのが大きい。

最初は大英図書館にグーテンベルグ聖書を見に行った。他にもベートーベンやショパンの直筆の楽譜だのなんだのいろいろ置いてあっていい。大英博物館といい、成功経験のあるもと帝国というのは大したもんだという品揃えである。ルネサンス前の宗教画にグッときてしまったのも大英博物館が発端だ。

テートモダンでは現代美術にビタイチ興味が持てないことを再確認した。強いていえば戦時中のプロパガンダ美術はいい。

大英図書館の近くにウェルカム・コレクションという生化学・医療にフォーカスした博物館があり、ここは愉快だ。鼻血を吹くひとの絵とか、クローン羊ドリーの毛とうんことか、めちゃくちゃ古い性玩具とか、そういうものが並んでいる。

アフタヌーンティーは何回か試したが、ケーキやら甘味の摂取上限が低いのでだいたい後悔する。結論、クリームティー(スコーンと紅茶)で十分だ。

 

ニュルンベルク

目的はひとつしかない。ニュルンベルク法廷博物館だ。

保存されている法廷から始まり、ニュルンベルク裁判に至る経緯とその内容が極めて網羅的に展示されている。オーディオガイドに日本語はないので英語でがんばること。

実際にナチの戦犯たちが腰掛けた長椅子や、絶滅収容所の映像なども展示されている。極めつけは刑の宣告シーンで、実際の音声をフルで聞ける。「絞首刑」を英語で「Death by hang」と言うのはここで覚えた。

ちなみにわずかだがカチンの虐殺についても触れられる。裁判初期に言及されたものの、数ヶ月の閉廷期間が開けたら誰も何も言わなくなっていた。ソ連このやろう、と思う瞬間である。東京裁判についても1コーナー割かれているが詳しくはない。

ニュルンベルクはナチが政権獲得後に最初の党大会が開催された土地としても有名で、ドク・ツェントルム(帝国党大会会場文書センター)の周りを歩くと、「おおこれはあの写真で見たあれ」「ここがシュペーア肝いりのサーチライトのアレか」「この辺にヒトラーゲッベルスが立って演説したのか」などいちいち確認できる。

また、ゲルマン民族博物館というのもあり、ここがニュルンベルクの街の規模に全く見合わない充実っぷりなので注意されたい。ドイツ全土からかき集めてきた文化に関わる全てが展示されている。美術品あり楽器あり甲冑あり食器あり衣服ありイコンあり、古い民家がそのまま移築されてすらいる。きらびやかな宮廷芸術のコーナーのど真ん中に実際に使用されたギロチンが置いてあったりして面食らう。世界最古の地球儀もここにある。正直、3時間でも足りない。

ニュルンベルガーヴルストは白っぽい見た目にハーブが入っていて、日本人にもなじみやすい。路上の屋台で「ヴルストおくれ」と言うと、10センチに満たないくらいの小さなヴルストが3本、硬めのパンに挟まって出てくる。うまい。

なお、ニュルンベルクはクリスマスマーケットで有名らしいので、そういうのがお好きな向きの方は12月に行ってください。私は遠慮しときます。

 

ブダペスト〜ウィーン

会社の先輩たちの旅行にくっついて行った。

ブダペスト、国会議事堂がまじでかっこいいのと、旧王城が下から見上げるとドラクエ感満載。温泉はぬるくて対して気持ちよくない(のとあまり衛生的ではない)のでおすすめしない。地下鉄が古いのでちょっとワクワクする。

ウィーンではオペラ「メディア」を見に行ったが、演出が部分的に現代リミックスで腑に落ちなかった。つーか外国語でオペラを見るって結構大変で、手元に字幕が出るからいいものの、視線は忙しいし使っている単語も見知らぬものがぽんぽん出てくるしで、脳が疲れる。ホテルザッハのザッハトルテ、特に感動なし。売店で5センチ四方くらいのキューブ型が売っているので、これを買うとしばらく朝食に困らない感じ。モーツァルト博物館に訪れたら日本語オーディオガイドを借りるべし。全面的にぎこちなく怪しいイントネーションでモーツァルトのだめっぷりを説明されるので二重に愉快である。

この2都市を渡り歩く際のポイントはグヤーシュの違いを楽しむことである。ハンガリアングヤーシュはスパイスの効いたさらっとしたスープ、オーストリアングヤーシュはこってり煮込みだ。私は断然ハンガリアンを推します。

 

サン・セバスチャン(スペイン)

これも会社の先輩たち(ブダペスト・ウィーンとは違うひとたち)の欠員補充で行った。

美食の街であり、ミシュラン3つ星レストランが3軒くらいある。バルも売るほどある。とある3つ星レストランでランチコースを食べたが、貧乏人には一万年早かった。おれの舌はそんなにソフィスティケイトされていないのである。バルで食べた安いタラのコロッケの方がよっぽど美味かった。

あまり何も覚えていない。そういうことである。今後は何としてもひとり旅にすることをいよいよ決意したのだった。

 

プラハ

期待を高めて訪れたものの、ザ・観光地、といった趣で落胆して帰ってきた。

あちこちの教会でアンサンブルコンサートを開催していて、これがなかなかよかった。2回別のコンサートに行ったが、絶対にモルダウをやるので聴き比べ状態である。

カトリックの国ということもあって、教会はだいたい豪奢。豪勢な教会を見て回ったあと、たまに質素な教会を見つけたりするとほっとするのはどういうわけだろうか。

世界一美しい図書館は、人が多すぎて趣もなにもあったもんではなかった。

ナチの高官、ハイドリヒの暗殺現場と、その後実行犯たちが立てこもり銃撃戦の末に自決した教会も残っている。これらを訪れた日は誕生日だったのだが、一体何をしているのか。

 

チューリヒ

デペッシュモードがヨーロッパツアー(その後ワールドツアーに拡大)をしていたのでライブを見に行った。

日本ではマイナーな部類にカウントされてしまうデペッシュモードだが、こちらではスタジアムクラスの大物なのである。スタジアムライブの何がいいって、客席で煙草吸いながら見られるところだ。

めちゃくちゃいいライブだった。Personal Jesusがかっこよすぎて鼻血を吹くところだった。

 

ワルシャワ

空港からタクシーに乗って宿泊先に向かったのだが、ホテルの真向かいがかの「科学文化宮殿」だった。ほほー、と呟く私に向かって運転手が「あれ何か知ってるか?スターリンからの贈り物さ!」と吐き捨て、ガイドブックに書いてあったことは正しいのだと教えてくれた。

ワルシャワ、これまでのところ一番気に入った滞在先だ。こことクラクフで見たことについてはちゃんと記事に起こしたいと思っている。

ワルシャワ蜂起博物館、ショパンミュージアムユダヤ博物館、ツィタデラ、パヴィアク刑務所あたりを回っている。ワルシャワフィルのコンサートも聴きに行った。ショパンコンクールの地だけあって、ピアノコンツェルトが主。

 

クラクフ

アウシュヴィッツ・ビルケナウのために行ったが、クラクフ自体もなかなかどうして充実している。

カジミエシュ地区、シンドラー琺瑯工場、プワシュフ収容所跡地とアウシュヴィッツを回った。アモン・ゲート(映画『シンドラーのリスト』で家のバルコニーからユダヤ人を狙撃して遊んでいた、プワシュフ収容所所長)の住んでいたRed Houseに立ち寄ったところ、何者かが買い取り、綺麗に建て直されていた。誰か入居するのだろうか。

 

・ナント

風光明媚で知られるフランスの小さな街に何をしに行ったのかというと、アインシュトゥルツェンデ・ノイバウテンのライブを見に行ったのである。

ライブを見るためだけに行った。全く後悔していない。最高でした。

 

エルサレム

ここまできたら(どこまでだ)ユダヤ人のNational Homeに行かなければならないのではないかという強迫観念に取り憑かれて行った。トランプがくだらないことを言い出す直前である。

教会見放題で体力を消耗し、ヤド・ヴァシェムで思いっきり体調を崩した。割れそうな頭を抱えてトラムを待っていたが、事故により復旧の目処立たずということで諦めてタクシーを捕まえ、このタクシーが道を間違えまくって宿泊先にたどり着く頃にはMG5(マジでゲロ吐く5秒前)状態。どうも街のリズムと噛み合わなかったようである。思うことはいろいろあったけどもね。

 

・ベルリン

ここで2017年の旅を締めくくるはずが、突然の高熱により断念。今度リベンジしてきます。ベルゲンベルゼンとベルリンフィルが主眼。

 

ワルシャワクラクフニュルンベルクはそのうちちゃんと記事を書きます。

あと、見に行ったライブについても。

祈りから遠く離れて

年始に一家で初詣をした。我が家は割とそういうところが保守的で、毎年欠かさない。賽銭用の五円玉をかき集めて行く。

二礼二拍手一礼、と作法をなぞりながら、毎年のことながら、この手を合わせている時に何を考えたらいいんだ、ということばかり考えていた。

 

ヨーロッパというのは、どの街を訪れても教会に事欠かない。大小や絢爛度、ビジター向けかジモティー向けかに差こそあれ、教会それ自体を見つけることは容易い。スターバックスを探すより簡単だ。

そしてどの教会も、たいていは誰にでも門戸を開いている。私のような信仰心のかけらもない人間が、博物館を歩き回って疲労困憊だから休憩がてらお邪魔したって誰も気にしない。確かに礼拝用の椅子は堅い木でできている上に前傾していて、お世辞にも座り心地が良いとは言えないが、そんなことはどうでもいいのだ。明るくない。うるさくない。誰も私を気にしない。何十分でも黙って座っていていいのだ。足が少しでも軽くなるまで。鎮痛剤が効いて頭痛が和らぐまで。せめて真摯な誰かの邪魔にならぬように、最後列の一番端で。

視線を伏せてしんねりと座っていれば、ひょっとしたら祈っているように見えるかもしれない。祈りの作法も、祈るべきことも、何もわからなかったとしても。

 

祈るふりができていると思い込んでいる私の横を、人々が通る。あるひとは無遠慮にカメラを掲げながら。あるひとはステンドグラスを物珍しげに見上げながら。

二人の老婦人が入ってきた。互いの右腕と左腕を組み、それぞれのもう片手には杖をついて、支えあうように、凭れ合うように、あるいは崩れ合うように、よろよろと進む。

もとより雑念まみれの私の横で、双子のような二人がゆっくりと膝を折った。組まれていた腕がほどけて十字を切る。彼女らの正面、ずっと先の方には祭壇が、磔のまま祀り上げられた神の子の姿がある。両手を組んだ二人は長いこと動かない。

冷たい石の床に着いたスカートの生地と斜めになった杖の先を眺めながら、祈るのか、と思った。祈るのか。こうして祈るのか。

 

彼女らにとっては挨拶以上のものではないかもしれない。私が田舎の親戚を訪ねた時に、仏壇に線香を上げて手を合わせるのと同じような、ただの慣習にすぎないのかもしれない。十字を切るからといって、その行為に明確な意志があるとは限らない。賽銭箱の前で神妙な顔をして10数えている私と同じくらい、何も考えていないのかもしれない。

でも、そうではなかったとしたら。たっぷり1分は跪いたままだった二人が、意外と危うげなく立ち上がる。この数十秒間に、彼女たちは何を思っていたのか、あるいは思わないのか。

 

それで、祈る人の姿に気がついた。

礼拝席で両手を組んだまま動かない人。嘆きの壁に頭を打ち付けるようにしながら聖書のページをめくる人。地下聖堂で円陣になって一心に歌う人たち。ロザリオを繰る指。祭壇に掲げられる小さなキャンドル。手向けられた花。絨毯の上でひれ伏す腕。

祈りを目にするたびに後ろめたさと一種の羨望が入り混じったものを感じながら、彼らには神がいるのだ、と分かった。

彼らには彼らの神がいる。たとえその神が日常の全てとともにあるわけではないとしても、彼らは彼らの神の名前と、祈るべきことを知っている。

私は知らない。私の神の名前も、祈るべきことも、何も知らない。いや、知らないのではない。私はもとよりそれらを持たないのだ。この感情はそのせいなのか。私は神を持つ彼らが羨ましいのか。

 

一心に祈る人の姿、うつむいた頭や閉じた瞼や組み合わされた指やなにごとかを呟く唇や跪く膝頭、それらの総体が視界に入る時、わたしが覚える後ろめたさは「侵してはならないものを侵してしまう」という畏れに近い。彼らの祈りが彼ら自身のことであれ、近しい他者のことであれ、あるいはこの世界、地球上に住まう全てのことであれ、祈るという行為は極めてプライベートな、他者の介入する余地もなければ許されもしないものなのだ。

誰も彼らの祈りを邪魔することはできない。そこは彼あるいは彼女と、その神にのみ許された絶対不可侵の領域だ。彼らの祈りは破られてはならない。

その祈りに居合わせてしまったこと、祈るべき神を持たずに都合のいい時だけ都合のいい神様を頼る自分のような軽薄なものが、いかに観光地化されていようとも祈りのために成立したその場所に足を踏み入れてしまったこと、それが後ろめたいのかもしれない。

 

「他人の情事の現場を覗き見てしまったような」という比喩を思いついたが、あまりに下世話であるとはいえあながち遠くもないのかもしれない。いやしかしやはり下品だ。祈りとは観念的な性交である。フロイトならいいねと言ってくれるかもしれない。

 

何が羨ましいのか、考えてみたけれどあまりすっきりしない。

神様にもいろいろあるので、とにかく神があればいいのかというと決してそうではない、と思う。別に「何でもいいから神様が欲しいぜ、おれも」ということではない。祈るべきなにごとかを持たないことは己の薄情さを認めるようで気が進まないが、祈る必要のあることがないのはよいことだ、と能天気に片付けてしまったって構わない。ましてや、自分の気づかぬ性的欲求不満がそう思わせているのだとしたら、とか、そんなことは考えたくもない。

彼らには頼るべき神がいるのが羨ましいのかもしれない。苦痛や不安に耐えかねる時、縋るべき何かをできるだけたくさん持っておくのが「精神的な独立」だ、という説を聞いたことがある。祈る彼らにも家族や友人やパートナーや、はたまた近所の八百屋のおばちゃんとか、行きつけのバーでたまに会うじいさんとか、頼る先はいろいろあるのだろう。それらに加えて神を持っている。神は彼らの告白を聞き届け、許し、指針と規範を与えてくれる。

そうだ。神は神であるがゆえに具体性を持たず、究極的には彼ら自身に内在するものであり、祈る神を持つということはすなわち、全知全能にして唯一無二、罪に穢れた衆愚どもを許し受容し導く大いなる存在を、内面化するということなのだ。

神を持つものは、神に祈りながら、許しを請いながら、煩悶する内心の混沌をさらけ出しながら、実は己自身でその祈りを聞き届け、罪を許し、己自身を苦しめるものごとに秩序を与えることができるのかもしれない。彼らは彼ら自身で自分を救うことができるのかもしれない。

神に縋る姿が弱々しく頼りなく見えたとしても、実際は違うのだ。彼らは己を救う方法を知っているのだ。

 

 

救われたいと思ったことは何度もある。けれど、何について救われたいのか、いちいち思い出せない。救われたいと言ってみたいだけなのかもしれない。

きっとこの先も私は祈るべき神を持たずにゆくのだろう。たとえ許されなくとも、救われなくとも、その罪業と恥知らずゆえに死ぬまではそのまま歩くしかないのだ。

それでもいつか、祈ることを知ったなら。祈るべき何かを迎えることができたなら。死ぬ瞬間には自分にできる精一杯でうつくしい祈りを捧げることにしよう。

 

 

過去の人生から学べることは?(Remix)

近所のスーパーに、プラカップに入ったスープが何種類か売っていましてね。味もそう悪くないのと何より手軽なのでたまに買い求めて夕飯代わりにするんですよ。
さああなた、こちらのカップを手に取って見てごらんなさい。こちらはハンガリー風グヤーシュのカップです。どうやら600ワットの電子レンジで4分加熱すれば食べ頃に温まるようだということが、そら、その左肩の枠の中ですよ、なんとなく見て取れるでしょう。
ですがね、あなた、問題はこのフタをどうして始末しようかということですよ。軟質なプラスチックというかビニールのようなフタが、カップにぴったりと糊付けされている。これは開けるのか開けないのか、開けるなら全部開けて取り外すのかはたまた半分くらいで留めておくのか、まったく判断しかねるというところじゃありませんか。これは実に我々の人生のようなもので、と言うよりかは、我々の営む生活は常にこの手の問いをやっつけ続けることで成り立っているわけです。フタを開けるのか開けないのか、開けるなら全部開けて取り外すのかはたまた半分くらいで留めておくのか。生老病死愛別離苦と言いますが、突き詰めれば生きる苦しみは全て何かしらの問いに答え続けなくてはならないと言う点にあるわけです。
いやはや話が逸れました。なに。どこかに説明があるはずだって?これは恐れ入った。そうなのです。カップの側面を見てごらんなさい。ぐるりと一回転させるうちに、どこかにそれらしき文字列があるでしょう。そう。そこです。だが困ったことに仏語と独語でしか記述がない。なぜならここはスイスだからです。ウェルカム・トゥ・スウィッツァーランド。
さてどうしますか。google翻訳でも使いますか。おっと何か見つけられたようだ。なになに、あなたは学生の折に独語を第二外国語として選択しておられた。少しは勘所がおありのようだ。そしてどうやら独語で「半分」を意味する単語を見つけられたらしい。なるほど、つまりあなたは、このフタを半分だけ開けてレンジアップすることに決められたわけですな。高度人工知能の手を借りるには及ばんと言うわけだ。なるほどなるほど。やはり持つべきものは知識でげすなあ。あたしのような小学校中退とはわけが違う。
さあさ、電子レンジはこちらです。操作は簡単、あたためモードはこのボタンを一回、加熱時間はこのダイヤルを回せば指定できます。ようがす。かっちり4分。あとはそこのほら、スタートというボタンを押しさえすれば、あとは良きように計らってくれるわけです。
待ち時間に4分というのは誠に半端ですなあ。煙草でも吸うよりほかにない。一服いかがですか。どうぞこちらに灰皿がございます。
などと言っている間にあなた、レンジの方から随分いい匂いがしてきたじゃありませんか。奴さん、十分に温まってきたようですなあ。どれどれ、ありつけるまであと1分半を切ったところです。肝心のレンジの中身は、なにやらガラスが曇ってしまってなにが起こっているかは見えませんが、フタを開けたんだもの、そりゃあ蒸気の一吹きや二吹きはするといったもんですな。まあ待ちましょう。ほら、スプーンを差し上げておこう。
電子音。扉はどうぞあなたの手で開けてくださいよ。おや。どうも様子がおかしい。天板がこんな色だったかしらん。ああなんてこった。開けたフタから沸騰したスープが噴き出して溢れちまってる。南無三。もうカップの半分くらいしか残っちゃいねえ。そりゃあいい匂いもするわけだ。やってしまった。あなたやってしまいましたね。何が悪かったんだか分からんが、ともかくあんたはせっかくの夕飯を半分台無しにしちまったわけだ。レンジの庫内のあちこちに油混じりのスープが飛び散ってえらい有様だ。天板はズブ濡れ。なんてこった。おしまいだ。何をぼやっとしていやがる、とっととここを片付けなきゃいけねえんだ。あんたはこのカップを持ってどこにでも行っちまえ。二度とそのシケたツラを見せるんじゃねえ、このボンクラ。スプーンは置いていけよ。


つまりこうしたわけで、人生というのは概ね、吹きこぼれたスープを片付けるようなものだということです。何言ってんだかもうさっぱり分からん。

ポートエレンを飲んだことはありますか?(remix)

ポートエレン、ええ存じ上げておりますとも。
ご質問に先にお答えしておくと、いまだかつて口にしたことはございませんし、きっとこれからも頂くことはないでしょう。


何も粋人を気取って、珍しいばかりで値の張る酒など呑むつもりはない、などとおためごかしを申し上げるつもりは毛頭ございません。
なんとなればわたくし真摯さと紳士さに欠ける、愛好者を名乗るもおこがましいウイスキー好きに過ぎませんから、それなりのバーに入って珍しいボトルを見れば、それではそこの見覚えのないカリラをひとつ、いやいやなんとそこにおわすはオクトモア、などと落ち着きのない振る舞いに走ることはいくらでもございます。
ですが、ポートエレン。需要の減少に伴い閉鎖されてしまった可哀想な蒸留所。樽の甘みとピートの潮臭さが楽しめる逸品と聞きます。きっと美味しいのでしょう。もとよりアイラウイスキーの魅力に取り憑かれてしまったわたしのような者にとっては、そりゃあ垂涎のお宝になるはずです。


ですが、ああ、ポートエレン。なにゆえにここまで心が踊らないのか。
理由はおそらく明白で、すべてわたしのひねくれた根性が悪いのでしょう。
そもそも、わたしは何かを有り難がるのが下手くそなのです。珍しいもの高価なもの偉い人すごい人、何につけてもモノやヒトに付随する価値を賞賛賞揚絶賛賛美礼賛する力に欠けているのです。情動語彙に乏しいせいかもしれませんし、他者の心情を忖度する感受性が発達していないのかもしれません。単に無神経なだけとも言う。
とにかく、さあ想像してみてください、何かの拍子にポートエレンが目の前に躍り出てきて、ストレートだろうが加水だろうが好きにして召し上がりなさいと促されたとしましょう。あなたもわたしも好きなように銘々のグラスを受け取って、その琥珀色で唇を湿らせるのです。両隣の赤の他人と、目の前のバーテンダーが目を輝かせてあるいは意地悪げにまつげを瞬きながら、われわれの感嘆を待っているのです。
いかがですか。あなたはきちんとひとくち呑み込んで、オーセンティックなバーに似合う、詩情混じりの詠嘆をこぼすことができましたか。周囲を取り囲む審判者たちの相槌と異論をうまく交わしながら、この体験、今は亡き蒸留所で生まれ、故にこの先全ての人類はその残滓をひたすら消費することしかできない不幸を上手に嘆き、ありついた僥倖に感謝できましたか。
わたしには無理なのです、到底果たしおおせない。空想の中ではいつも、唇にグラスをあてがった瞬間、何かとんでもないカタストロフを起こしてしまうのです。ワンショット撒き散らしたり、一息に呑み込んでしまったり、叫び出してしまったり。
そんなこと、赤の他人のまなざしなどを気にかけるからいけないのだとおっしゃるでしょう。何か格好のいい口上がなければならぬという法があるでなし、好きに呑んで嫌も良いも言うも言わぬも勝手にすれば良いと。
はあはあ、ええおっしゃる通りです。第三者の目など伺う方が阿呆なのです。あなたはまったくいつだって正しい。
ですがね、あなた、われわれの目下の仇はそうもいかないのですよ。奴さんが珍品だということなんか誰でも知っている。ああ、いいですねえ、まあ、うん、ええと、さすが、などともごもごするくらいでは到底解放されないのです。そう、張り裂けんほどの賞賛を!落涙せんばかりの感動を!心臓の震えるような哀惜を!


などとくだらない妄想を働かせては疲れてしまうので、ポートエレンのことは考えないようにしているのです。
まあ、懐に余裕があって、いい加減に酔っ払っていて、気易いバーでうっかり勧められれば、まあハーフショットくらいは呑むかもしれませんね。呑むんじゃないかな。たぶん呑むと思います。

他の人にはまねできないようなことがありますか? (remix)

「まねできない」とは卑怯な質問をしますね。

模倣可能性、もしくは複製可能性と言い換えても良いでしょうが、第三者にトレースされない能力や肉体の動き、思索の向かう方向、織りなす言葉の選び方、はた鳴き声や爪の研ぎ具合や尻尾の振り方、そんなものをお持ちかとあなたは聞いているのでしょう。


よろしいですか。仮にあなたが代替可能性を指して「まねできない」というのであれば、それは大変な誤解であり欺瞞です。唯一にして全智、無二にして全能、この世界なるがらくた置き場を創造したところの神なる存在がおわすのであれば、代替不可能なものなどないのです。全てのものは何らかの形で置換可能です。何となればすなわちこの世は神の手になるがらくた置き場に過ぎないのですから、中に放り込まれたがらくたの見目かたちや挙動が多少違ったところで、それががらくた置き場の秩序を組み替えることはないのです。


あなたがどれだけ高く跳ぼうと、いかに素早く表計算ソフトを操り何ギガバイトもあるデータを処理しようと、端正な言葉で風景を描写しようと、美しく笑もうと壮絶に泣き喚こうと、それはあなたのみに許された振る舞いではないということです。あなたの全ては常に模倣可能であり、わたしの全ては何者かの複製の集合に過ぎません。全てです。あなたの指もわたしの瞳もあなたの腎臓もわたしの三半規管もあなたの詩もわたしの思想もあなたの喜びもわたしの苦しみも彼の憎悪も彼女の劣情も、すべてがコピーアンドペーストの成れの果てです。わたしたちはどこまで行っても「新規作成」されないのです。


だから、自分だけに、などと思うのはもうおやめなさい。代替不可能な存在を追い求めるのはおよしなさい。置換不可能でなければ愛されないなどと思い込んではいけません。あなたという存在が必死でしがみつく領域が、常に誰かに侵され得るということを恐れてはいけません。なぜならあなたが侵されるのと同じように、あなたも誰かの足場を侵してここまで生きてきたのですから。複製品として生まれ育ったわたしたちは、誰かに模倣され、何らかの点で置換され、足場を脅かされ、足場を奪い、安住の地を得た気分になりたくて誰かの手を握ろうとして、指に触れることを正当化するために、「あなたでなければ」と言われんがために万人に普遍な唯一性という夢を見てしまうのです。


もうおよしなさい。抱きしめられるための理由を、談笑の輪に加わるための弁明を、金銭を手に入れるための根拠を、名を呼ばれるゆえんを、「他に代え難いあなた」などという幻想に預けるのはどうぞおよしなさい。あなたは常に置き換え可能で、あなたでなければならない必然性など何ひとつないけれど、であるがゆえにあなたはこの世界という名のがらくた置き場の中で、常に受容され、言祝がれるのです。

さびしい炎(Remix)

音にして「さびしい」となる言葉を文字に起こすのに、どれが一番「さびしい」という感情に合うだろうかと考えてみたことがある。

「寂しい」「淋しい」「さびしい」どれも同じ音で似たような感情を表すようだけれど、違う。

「寂しい」は喪失感と後悔と諦念。いままでそこにあった音や動きや温もりがどこかに行ってしまって、追いかけることが出来ずに呆然と立ち尽くす。ほんの少し前まで手の中にあったはずのそれが、もう追っても手に入らないだろうと知っているからその場から動けない。

「淋しい」は、さんずいのせいだろう嫌に湿っぽいというか、水っ気が残る。オノマトペにしたら「めそめそ」とか「じめじめ」とか「しとしと」とかそんなところ、傘を忘れたふりをして雨の中に立ち止まるような、何かを期待している孤独のポーズ。

「さびしい」。何もない空虚にふと放り出すため息よりも希薄な吐息の、あたたかくもつめたくもない温度。あったはずのものが失われてしまった「寂しい」と違うのは、「さびしい」はただ気づいただけだからだ。失ったのではなく、もとより何もなかったということ。空っぽの箱を開けて、中身は失われたのではなくはじめから何も入っていなかったのだと気づいた瞬間の孤独の吐息だ。

 

カミュの『カリギュラ』を読みながらこんなことを考えていた。

カリギュラは不条理な暴君だろうか。いや、確かに彼の思いつきのような収奪や迫害や暴力は、その標的に選ばれた者にとっては十分に不条理だろうけれど、カリギュラそのひとは条理を捨てたわけでも、不条理を為そうとしたわけでもないのではないか。

カリギュラはただ「さびしい」のだ。

ドリュジラの死は彼に「寂しさ」をもたらしたかもしれない、が、カエサルたる彼の「寂しさ」を埋めるものはいくらでもある。「寂しさ」を拭うためにセゾニアとエリコンがいるのだ。父を殺されてなおシピオンはカリギュラのために涙を流すし、カリギュラにとってはケレアこそが空虚な王宮に音と動きと温度をもたらした。饒舌な演説、振り下ろす刃、そんな方法で。

カリギュラの世界は音や動きや温度に満ちている。そうあるように彼は殊更にグロテスクな乱痴気騒ぎを繰り返すのだ。ケレアの謀反こそ彼の待ち望んだ狂騒だ。カリギュラは「寂しい」のではない。「寂しさ」は所詮、一過性の感傷だ。

カリギュラ自身をしてその世界を破綻させたのは「さびしさ」だ。彼は気づいてしまった。音や動きや温度に満たされた彼の世界が極彩色に見えて実はそうでなかったということに。そして、音も動きも温度も色も、彼自身から生まれ出づるものではなかったということに。

世界はありのままでは充分ではない、とカリギュラは言う。そのままでは耐えられない世界という代物の上に立ち続けるために、彼が望んだのは「月」だ。最早何ひとつとして己の内にはないと知り、これから先も何ひとつとして産みだすことができないと悟り、何ひとつとして自分のものにならないというならば、誰も望まず、ゆえに誰のものにもならない「不可能」より他に求めるものはない。

皇帝は、彼自身が「さびしい」のだということに気づいてしまった。「さびしさ」を拭い去る手立てはない。ケレアはいい線まで行った、ふたりの魂と誇りはお互いに向き合うことができたが、しかし交わることはできなかった。謀反の証を火にくべるカリギュラが微笑むのは、束の間の幻想であったとはいえ、「さびしさ」を紛らわせることが出来たからだ。

彼の望みは世界の決まりを覆すことではない。ただ「さびしさ」を慰めたかっただけだ。セゾニアの無償の愛やエリコンの忠誠では「寂しさ」を埋めたとしても「さびしさ」はいや増しに深まるだけだ。彼らはカリギュラに尽くすばかりで、カリギュラに何かを求めはしないからだ。彼らは彼らなりに皇帝を愛しはするが、愛と忠誠を与える一方で彼から何か得ることを決して求めない。情婦と奴隷として至上の姿だが、愛と忠誠をつぎ込めばつぎ込むほどにカリギュラが空虚な箱であることが明らかになってしまう。彼らではカリギュラの空虚を払うことはできない。

カリギュラは「さびしい」のだ。自分ひとりでは何も創り出せないから。自分ひとりでは何も手に入らないから。空っぽの両手を持て余して、いつでも腹を空かせた醜い獣同然であることに気づいてしまったから、だから「さびしい」のだ。己という箱を開けて、そこにはこれからもこの先も何もないことを知ってしまったから、だから「さびしい」のだ。

かのカエサルは極めて無力で、呑み込むばかりで何も産み出せない、恐ろしく巨大な空虚である。そして彼自身がその空虚に呑まれて破綻しつつある。彼は「さびしさ」というブラックホールを認識し、立ち向かおうとする。「月」はついに届かないけれど、カリギュラは最後に叫ぶ。「さびしさ」に呑まれない恐らくはたったひとつの回答は、カリギュラ自身の断末魔となって世界に弾けるのだ。

空っぽの袋(Remix)

どうということもない、ただ何ということもない自分に嫌気がさしただけだ。

140字の世界は悪くないけれど、虚空に向かって言葉を吐き捨てるばかりの自慰行為だけでは何も書けなくなってしまう気がする。

何かを書くことができる私がかつていたのかどうか、そんなことを考えたら余計に嫌気が深まるばかりだ。

 

何かを書こうと思う。

なんでもいい。ただ、達成すべき目的も、報告すべき相手も、承認を求めるべき場も、一切想定しない文章を書こうと思う。

何かを書かなければならない。書こうとしなければならない。私が私を許せるような文章になるまで書き続けなければならない。

 

何かを書かなければならない、と思ったのはこの間の薄気味悪い夢見のせいだ。

見知らぬ誰かの運転する車の助手席で、私はまるで前後の脈絡が掴めない電話に飽きている。それが終わって、何か素敵なことが起こりそうな予感に柄にもなく心拍数を上げた矢先、運転手は眠り、いくら呼んでも目を覚まさない。必死でハンドルに手を伸ばすけれど、やけに遠いハンドルを握るともう前が見えなくなってしまう。車は不思議と一定の速度で走り続け、私はサイドブレーキを引くことをためらっている。細くくねる下り坂を、止まらない車が走る。ああもう駄目だと見上げた空はやたらと白い。路面を噛むタイヤの感触がふと軽くなり、そのくせ引力が発動しない。不思議と安らかな諦念に身を委ねて落下を待つ。エンドロール。

目が覚めてあまりに直喩が明らかで、己の脳の短絡に落胆した。結局、一番上等な幻想を提供してくれるはずの夢ですらこの程度だ。深みも厚みもない。

 

こうしていてもろくな言葉が出てこないことにひたすら焦燥ばかりしている。

操る言葉に美しさのかけらもなく、述べる内容は一片の興味も惹けず、この焦燥をすらきちんと表現できない。

 

書かなければならない。書こうとしなければならない。

この肥大して今にも崩れ落ちそうな自意識を支えるために、書くのだ。

書けるはずだ。内容は何だっていい。書けるようになるまで書くしかない。